先週に引き続き、今週もひとりで映画鑑賞。息子はお友達と遊びに行くってんで、昼食とおやつを用意して出掛けました。
早朝の特急あずさで新宿へ。昨年末ぶりのテアトル新宿です。観るのはもちろん『この世界のさらにいくつもの片隅に』。
前回はどうしても「追加シーンはどこでどう来るかな」ということに注意が向いてしまって、まとまった一本の作品としての流れが掴みづらかったので、二度目の鑑賞となる今回はもうちょっとフラットに全体を俯瞰したいなーと。
チケットを買って入場すると、来場者特典の描き下ろしポストカードを貰えました。このポストカードは「原作にあるけど残念ながら映画に入れられなかったシーン」をイラストにしたもので、今回配られたのは、家族が風邪で寝込むなか、ひとり元気にザボンを剥くすずさんを描く「これだけは自信があるね」のシーンでした。
さて、私を含む「このセカ」クラスタが、何度も何度もこの映画を観てしまう理由は、観終わったときの「このやるせないモヤモヤ」した感情を持て余してしまい、何とかその感情の正体を見定めたいと思うからなのだけれども、今回、ちょっとだけその感情の一端が見えた気がしましたよ。
富野由悠季監督が、すずさんと『戦争は女の顔をしていない』のソヴィエト女性狙撃手のメンタルティの共通点を挙げていたことが、ほんのちょっとだけ分かったかも。
2016年版のすずさんは「不自由な戦時下にあっても日々を明るく過ごす、ちょっと天然で自己主張の少ない女性」というイメージ。多くの方々のレビューでもそう捉えられていたことが多かったように思います。
何というか、ある意味では不気味ですらあったんです。
だって、すずさん18歳ですよ。それがいきなり知らない青年から求婚されて、馴染みのない呉の町に嫁いで、嫁入りの次の日から労働力として早朝から家事全般を担い、小姑にはいびられ、戦争で物資は欠乏、そしてどんどん戦況は悪化して、という過酷な状況だっていうのに、すずさんはいつもあの照れたような微笑みを浮かべたまま、「あちゃー」なんてノンキに呟いてる。
あまりにも本心が分かりづらいキャラクターだから、こうの史代先生の『長い道』のヒロイン級に不気味だなと感じていたんです。『長い道』の道さんも、親の気まぐれで甲斐性なしのダメ男の荘介のもとにいきなり嫁がされ、愛情も何も貰えず、毎日苦労ばかりかけさせられるのに、何も言わずニコニコ笑って居る。物語の後半になると、道さんの心の奥に秘められたものも少しだけ明らかになりますが、それにしたって、何を考えているか分からぬ女性というのは本当に怖い。
このセカに話を戻すと、2016年版ではあまりにもすずさんの本心が分かりづらかったから、「水原哲との納屋の夜」と「玉音放送の後」の2つのシーンで、いきなりすずさんが激しく感情をむき出しにするのに、かなりドキッとさせられるんです。
普段おとなしい人こそ怒ると怖い、ってあるじゃないですか。あんな感じ。
で、どうしてこの2つのシーンですずさんがいきなり怒り出したのかは、2016年版でもなんとなくは分かるんです、「なんとなく」は。
だから、「なんとなく」で納得した気にはなってたんです。
でも、「このやるせないモヤモヤ」は、なぜだか消えてくれなくて。
それが、2019年版になって、物語がすずさんの心の中に分け入っていきます。
それは「白木リン」という、すずさんにとって唯一の親友の存在がクローズアップされたことによります(2016年版ではそのほとんどがカットされていた)。
リンさんに向けて、すずさん自身の口から、家族にも話せないデリケートな女性としての悩み事――不妊の悩み――がこっそりと打ち明けられます。子供を持てぬ嫁の存在意義とは、居場所とは。
そして、悩めるすずさんをさらに追い詰めることとなる、周作とリンの「関係」。
この真実に気づいた後、すずさんはただ「ボーっとしている」んじゃなくて、「ボーっとしているようにふるまっている」わけです。そうふるまわざるを得ないわけです。この居場所を壊したくないから。壊すわけにはいかないから。
これは、でも、精神的には相当に厳しいんじゃなかろうか。仮に私が同じ立場に立たされたら、我慢できるだろうか。
そう、すずさんは「我慢」してるんです。玉音放送の後、すずさん自身が「だから我慢しようと思ってきたその理由が」と呟いています。ただ、このシーンではその「我慢」は主に「晴美さんや右手などの犠牲」や「戦時下の困窮」などに向けられていて、2016年版でもその意味は伝わるんですが、本当はそれだけじゃなかった。もっと色んな事柄に対して我慢させられてきた。
その我慢の原因、すずさんを苦しめていたものは何かと言えば、「無神経」という言葉を使うことができるのかな、と。
『戦争は女の顔をしていない』のコミック版の1巻ラストのエピソードに、「戦争で一番恐ろしかったのは男物のパンツをはいていることだよ」という台詞がありましたが、アレに共通する部分があるのかな、と。
祖国のために死んでもいい覚悟で戦地にいるというのに、女としての尊厳を無視され、人間性を尊重されない。
すずさんは、絵を描くのが好きな「女の子」だったのに、いきなり「北條家の嫁」となった。家制度という社会の枠組みの中へ縛りつけられ、家事と子作りという「ヨメのギム」を押し付けられる。
それでもまだすずさんには救いがあった。周作さんは優しかった。なぜ自分を見初めたのかは分からないけれど、幼い頃に出会ったという自分をわざわざ探し出してまで選んでくれた。その夫の愛がすずさんの最大の支えであったろう、――だが、しかし。
それが、本当は、違っていた――自分はただの代用品だった。
周作の無神経さ、身勝手な行為により振り回された、すずさんの運命。
そう知ってから観ると、すずさん、結構ちょくちょく怒っているんですよね。
2019年版の追加シーンである「夫婦の営み」シーンでは、すずさん、言葉にこそ出さないけれど、かなり周作さんに対してむかついてる。そりゃ、あんなことを知った後で、周作さんに抱かれようという気持ちにはならんでしょう。でも周作さんは全然分かってないんだよな。
2016年版にもあった「哲との納屋の夜」のシーンは、すずさん怒って当たり前。周作さんが妻であるすずさんにした行為はもはや裏切りだし、幼馴染の水原哲さえもが、人妻であるすずさんに対して無神経なふるまいを仕掛けてくる。まぁ、哲はそこで踏みとどまるだけマシですけどね。
で、その周作さんの裏切りについて、すずさんは汽車の中でついに怒ります。でも、周作さんははぐらかそうとするんだよなー。ずるい。ホント、2019年版の周作さんは時々たまらなく憎たらしく見えます。
遊郭に討ち入りに行ったすずさんは、もしリンさんに会えていたなら、どんな話をするつもりだったんだろう。なんとなくだけど、すずさんはリンさんには怒りを表さない気がするな。だって、自分が我慢させられているのは「男の顔をしたもの」であり、リンさんやテルちゃんは「男」の無神経さ、身勝手さに振り回されているものだから。
右手と晴美さんを失った後、不発弾が落ちてきたとき、一瞬、このまま家が壊れてしまえばいいと思ってしまったすずさんは、もう相当いっぱいいっぱいの状態だったんだろうと思うんだけど、それでもまだ「北條家を守るために」我慢する。
それが爆発したのが、鷺を追いかけるシーン。もう我慢するの嫌だぁぁぁと叫びたい思いだったんだろうなぁ。帰る帰る広島に帰る、とようやく周作さんに激しく思いの丈をぶつけます。が、周作さん、まだ原因が自分にあることに気付いてないぞ。鈍感。
そのすずさんの怒りを鎮めたのは径子さんの謝罪の言葉で、それですずさんもいったんは落ち着いたものの、その直後に広島があんなことになって。
で、帰る場所を失ったすずさんは、こうなりゃ使えるものは何でも使って戦うと覚悟を決めて――祖国のために死んでもいい覚悟で頑張ってきた、頑張ってきたのに。
我慢に我慢に我慢を重ねて、あっちもこっちにも怒りが収まらなくて、それを必死で微笑みの下に無理やり抑え込んできたのに、その結果がこれ?
玉音放送を聞いた瞬間のすずさんの気持ちを思うと、あの怒りの爆発が、すんなりと腑に落ちるわけです。何のために自分は我慢してきたのかと、ちょっとばかばかしくなったんじゃないでしょうか。そんな自分自身にも腹が立つ。多分。
そう思うと、戦後に再会した水原哲に声を掛けなかった理由もなんとなく分かるんですよね。「この世界でまともで居られなかった」から。あの何も知らないボーっとした少年少女の頃には戻れないから、その頃の自分たちに決別する気持ちだったのでしょう。
と、ここまで長々と書いたけれども、どうせまた何度か観に行くことになるでしょう。そしてその都度、また新たな見方に気づくことになるのでしょう。『このセカ』はそういう作品なのです。だから、いつまでも観終われないのだな…。