つれづれぶらぶら

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『夕凪の街 桜の国』

図書館に、こうの史代さんの『街角花だより』を返却して、入れ替わりに『夕凪の街 桜の国』を借り出してきた。 

 ※なぜかAmazon商品紹介ツールで原作漫画が検索できないので、便宜的にノベライズ版を貼っておく。 

街角花だより (アクションコミックス)

街角花だより (アクションコミックス)

 

どちらの漫画も、もう何度となく借り出している作品。だったらいいかげん買いなさいと、こうの先生に叱られてしまいそうだが(;^ω^)

『街角花だより』は、こうの先生のストーリー漫画デビュー作だそうで、ちっちゃなお花屋さんを舞台に、ほや~んとした店長の「うらら」とアルバイトの「凛(りん)」が織りなす日々のドタバタを描いたコメディ作品。発表時期によって、登場人物の苗字が異なる「明石版」と「日和版」がある。

明石版のほうが古く、絵柄もやや線が太め。毒舌家の凛が、店長にほのかな恋心めいた気持ちを抱いているという、これって百合漫画なのか?という不思議な作品でもある。ただ、その目論見はあまり成功していないのだが。

むしろ、デビュー後数年を経て復活した日和版のほうが、ほのぼのとした女性同士の友情コメディを爽やかに描いていて読みやすい。ラーメン屋のチラシの文字を歌詞にして河原で仲良く歌うシーンなどは、こうの先生のユーモアとささやかな幸福感が溢れていてとても良い。お金がなくても、特別な何かがなくても、日々の生活のありふれた営みの中に楽しみを見つけられるというのは、こうの作品の最大の魅力だと思う。


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だから、こうの史代さんという漫画家さんの持ち味は、やはり日常系コメディでこそ生きるのだと思う。明るくあっけらかんと過ごす人々の姿を描きながら、それぞれの心の中に隠されているものが、不意にほんの少しだけ見えては隠れる、その陽と陰の絶妙なバランス感覚がとても好きなのだ。

sister-akiho.hatenablog.com

そう考えると、やはり『夕凪の街 桜の国』は、こうの史代先生の代表作と呼ばれてはいるものの、しかしながら異色作であると思う。このことは、以前、大阪で『こうの史代作品展』でズラリと並んだ原画を見たときにも感じたのだが、間違いなくこうの先生の絵でありながら、『夕凪の街 桜の国』だけが「違う」という印象を受けたのだった。
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だからといって、この作品そのものを否定しているわけでは絶対にない。こうの先生が「原爆症」という、令和の現在にあってもなお「終わっていない」問題に対し、真正面から挑み、多くの人々にその事実を伝えたことは本当に意義深いと力説したい。

このお話は まだ終わりません

何度夕凪が 終わっても 終わっていません

(「夕凪の街」P34)

 

『夕凪の街 桜の国』は、2つの物語から成る。

昭和30年、原爆投下から10年が経った広島市内。粗末なバラックで母と2人で暮らす23歳の女性・平野皆実の物語を描く『夕凪の街』。人々は洋装店のショーウインドウに飾られた素敵なワンピースに見惚れ、カープ力道山の試合に熱狂し、歌謡曲を口ずさみ、銭湯で「ごくらく ごくらく」と笑い合う。明るく朗らかな人々の姿。

しかし、その人々の背中に残るケロイドや縫合痕。

ぜんたい この街の人は 不自然だ

誰もあの事を言わない

いまだにわけが わからないのだ

わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ

思われたのに生き延びているということ

(「夕凪の街」P15-16) 

その思いが、皆実の心を塞いでいる。お洒落なワンピースにも、自分に心を寄せてくれる打越さんに対しても、直視することができない。それらを見ようとしたとたん、皆実は「すべて失った日」に引きずり戻されてしまう。何人もの人々を見殺しにした。死体から下駄を盗んだ、あの日の光景の中に。

それでも、皆実はようやく、勇気を出して打越の気持ちに向き合おうとする。ところが、その希望を嘲笑うかのように、原爆の後遺症が急速に皆実の身体を蝕んでいく。

嬉しい?

十年経ったけど

原爆を落とした人はわたしを見て

「やった!またひとり殺せた」

とちゃんと思うてくれとる?

 (「夕凪の街」P33)

この「嬉しい?」を外国語に翻訳する際に苦労したというような話をどこかで聞いた気がする。日本語は主語がなくても成立する言語だから、ここは文脈を読めば「原爆を落とした人」に対して皆実が「嬉しい?」と問うていることは読み解けるんだけれども、外国の方には「皆実が死ねて嬉しいと思っているのか?」とも読めるんだそうな。んなわきゃない。原爆症で喜んで死んでいった人なんかいるもんかね。

あと、このシーンを読んでいると、『この世界の片隅に』のすみちゃんの行く末をどうしても案じてしまう。漫画でも映画でも「すみちゃんの腕にできた謎の痣」について説明していないので、分からないとそのまま。でも、それが原爆症の症状のひとつであると知ってしまうと、とてつもなく悲しい事実を突きつけられる。あの漫画や映画にはそういうたくさんの「語られていないこと」が意図的に盛り込まれており、受け取り側の自発的な行動を促すようにできている。

 

後半の『桜の国』は、東京に暮らす石川七波(ななみ)の目線で、前後編で描かれる物語である。

その前編は七波が新井薬師前に住んでいた小学5年生の頃の短いエピソード。少年たちに混ざって野球をする腕白な少女の七波が、隣家に住む同級生の友達・利根東子(とうこ)と一緒に、ぜんそくで入院している七波の弟・凪生(なぎお)のお見舞いに行く。拾ってきた桜の花びらを病室でまいて弟を喜ばせる。そのせいでおばあちゃんに怒られる。あらすじとしてはこんな感じで、何も気づかなければ、ごくありふれた活発な少女の一日を切り取った物語として映る。こうの先生お得意の「日常コメディ」である。

しかし、注意深く読めば、そこかしこにぼんやりと不穏な影が見え隠れする。おばあちゃんは七波が鼻血を出した(実際には野球のボールが当たったため)ことについて、なぜ心配したのか。そもそも凪生はなぜ入院しているのか。おばあちゃんが受けた検査とは何なのか。なぜおばあちゃんは死んでしまったのか――それらの謎は、全て後編に持ち越されてゆく。

 

その後編は、平成16年、28歳になった七波の物語。父と七波と弟の3人で、田無駅の近くで暮らしている。元気になった凪生は研修医をしており、ふと「こないだ姉ちゃんの友達の利根東子に会った」と懐かしい友人の名前を口にする。東子は看護師になっているらしい。しかし、その情報よりも、七波の目下の心配事は、近ごろ父親の様子がおかしい、ということだ。ふらりと出掛けたまま2日も帰ってこなかったり、やたら電話をかけていたり、もしやボケかかっているのでは?と、姉弟が心配している矢先、父親が散歩に行くと言って家を出て行く。心配した七波が尾行すると、父親は東京駅に行き、さらに広島行きの長距離バスに乗ってしまうのだった。その尾行の道中で再会した東子とともに、七波は父親のあとを追って広島へ向かう。

その広島で、父親・石川旭は基町の河川敷に座り、昔を思い出している――ここから物語は、青年時代の旭の視点に移る。旭は、原爆症で死んだ平野皆実の実弟であり、原爆の前に水戸の伯母の元に養子に出されていたのだった。実の母を訪ねて広島に戻ってきた旭は、太田京花という少女に出会う。赤ちゃんの時に原爆の光を浴びた京花は、そのせいで知恵が足りなくなったのだと言う。旭は、なんでもすぐに「原爆のせい」にするのはおかしいと感じ、京花の勉強など、あれこれ面倒をみてやるのだった。そして2人はお互いに好意を抱くようになり、数年たって、旭は京花にプロポーズするのだった。誰が見てもお似合いのカップルであり、2人の間には長年培われた信頼関係と穏やかな愛情が育まれている。にもかかわらず、母は反対する。

……あんた被爆者と結婚する気ね?

何のために疎開さして養子に出したんね?

(中略)

うちはもう

知った人が原爆で死ぬんは

見とうないよ…… 

(『桜の国(二)』P84)

七波と凪生は、その京花の子供であり、被爆二世なのだった。そして愛し合う凪生と東子の間に、その事実が重くのしかかっていた。だが七波は「原爆のせい」にとらわれることに疑問を抱く。

……母さんが三十八で死んだのが原爆のせいかどうか

誰も教えてはくれなかったよ

おばあちゃんが八十で死んだ時は

原爆のせいなんて言う人はもういなかったよ

なのに 凪生もわたしも 

いつ原爆のせいで死んでもおかしくない人間とか

決めつけられたりしてんだろうか

(『桜の国(二)』P86) 

七波は、被爆者の母と父との間に生まれた自分自身を受け入れる。破いた手紙を桜の花びらのようにまく。そのすっきりとした表情、強いまなざしが、この物語の最後を締めくくる――希望のように。

 

しかしながら、この物語は今もなお終わっていないのだ。

あとがきで、 こうの先生は、自分は広島生まれではあるけれども原爆に無縁であることから、最初はこのテーマから逃げたいと思っていた。けれども、東京で暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らない――知りたくてもその機会に恵まれないのだ、と気づき、遠慮している場合ではないと思って描いた、と語っている。

私自身も、広島生まれとは言いつつ両親は出雲から来ているし、原爆についてよく知っているというわけではないけれども、広島を離れてみると、あまりにも他の地域の人々に関心を持たれていないのだなぁ、と気づくことが多々ある。

それは、数年前のことだったが、8月9日の午前11時過ぎ、仕事の手を止めて、窓際でひとり黙祷していると、隣の部署の上司が通りかかって、「どうしたどうした、宗教のお祈りか何かか?」と冷やかして通り過ぎて行ったのだ。その一言が、私にはすごくショックだった。その上司に悪意がないことは分かっている。その少し前に「ただいまより長崎原爆忌の黙祷を行います」という町内放送が流れていたのだが、おそらく音量が小さ過ぎて聞こえなかったのだろう。フロアには大勢いたが、みな忙しそうに働いていた。サボっているように見えたのだろう。だから、その上司に対して何かを言いたいわけではなく、皆に対して何かを叫びたいわけでもなく、ただ、ただ、ショックだったのだ。それだけのことだ。

でも、そういう私だって、じゃあ東京大空襲の正確な日付と時刻が言えるか、松代町の空襲を知っているかと言われたら、言えない。知らない。そういうことだ。

『夕凪の街 桜の国』そして『この世界の片隅に』は、そんな私たちへの道しるべのひとつである。だからこそ、時々読み返したくなる――読まれるべきである、と思うのだ。