つれづれぶらぶら

一気にまとめて書こうとしたけど時間が足りないので、旅行の記事はちょこっとずつ書いていきますね。

横内「天白」散歩

郷土研究家の今井野菊さんが、全国に分布するミシャグジ信仰について『御社宮司の踏査集成』という資料にまとめ上げたことは、以前書いた。 

sister-akiho.hatenablog.com

さて、この今井野菊さんは、ミシャグジの研究をしていくうち、ミシャグジの信仰分布圏と重なり合う形で「天白(てんぱく)」というもうひとつの信仰があることに気づき、その分布についても膨大な手間と時間をかけて『大天白神』という資料にまとめ上げた。それによると、長野県を最多として、次いで静岡県三重県に多く見られ、埼玉、愛知、山梨、神奈川、新潟、岩手にまで広がっているという。

天白といえば、すぐに思いつくのは名古屋市の天白区の地名であるが、その由来はその地域を流れる天白川から来ており、さらに天白川の名の由来はかつてその流域にあったとされる「天白明神」の社からだという。しかし、その天白明神とは何なのかは未だ謎であり、ミシャグジ同様、多くの研究家を悩ませている。

私も現在、天白に関するいくつかの論文(※)を読んでいるところだが、

※古部族研究会編『古諏訪の祭祀と氏族』(今井野菊「諏訪の大天白神」・野本三吉「天白論ノート」を収録)、山田宗睦『天白紀行 増補改訂版』、三渡俊一郎『天白信仰の研究』

あまりにも複雑で、どうにも歯が立たない。どうやら伊勢と信州を結ぶ重要な線がここにあるようだが、まぁ、まだ読みかけだし、半可通ぶって私が口を出すのもみっともない。しょせん、このブログは平凡な私の日常に関するお気楽な雑記だし、本格的に勉強なさる方は専門のサイトにお行きになるだろう。

というわけで今回の記事は、それらの資料の中で注目されている茅野市の「横内」という地区をぶらぶらと歩きながら、天白やミシャグジがどのように祀られているかを眺めていこうと思う。いくつか写真を撮ってきたので、一緒に散歩している気分になっていただけたら幸いだ。

 

茅野市の「横内」という地区は、茅野駅のすぐ西側にある地域だ。住所表示上の区域は「ちの」、学区は「永明」で、諏訪大社の御頭郷は「栗林郷」に属する。茅野市の中では利便性に優れ、日当たりの良い開けた場所であることから、住宅が多く立ち並ぶ。

茅野駅の西口から、散歩を開始しよう。2階の連絡通路を通って、向かいのベルビアという商業ビルに入り、エスカレーターを下って西側の出口から出る。すると、目の前に大きな鳥居が立っている。その隣には小さな郵便局があり、それと軒を連ねるように、道路沿いには住宅や商店が立ち並んでいる。それらの建物は平屋か2階建ての、とりたてて珍しくもない建物ばかりだ。

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ところが、この鳥居をくぐり、ぐぅっと大きく右に曲がっていく下り坂を歩き始めると、それらの建物は、実は3階建て又は4階建てであることに気づく。つまり、この鳥居や建物らは、切り立った崖の上に建っているのである。

 

坂を下り始めてすぐに、道の右わきに小さな小路が現れる。

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この小さな標識に気づかなければ、その小路の存在にも気づかないであろうほどに、人ひとり通るのがやっとの小路だ。こちらを下っていこう。

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しばらく歩くと、開けた場所に出る。そこに、こんな看板が立っている。

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上蟹河原遺跡
上蟹河原遺跡は、国鉄中央線茅野駅西三〇〇メートル地点で大塚古墳・姥塚古墳などが立地する上川の沖積台地の西端崖下にある。崖の高さは十メートルで、標高は七六九メートルです。春は崖の日溜りに菜の花が咲き、付近には湧き水による清流が流れており、遺跡前面には沖積地が広がり水稲耕作には最適な地であった。遺跡付近には弥生時代から平安時代にわたる土器等が散布していた。

ここには、かつて八ヶ岳山麓の権力を一手に握っていた「矢塚雄神(ヤツカオノカミ)」が住んでいて、通称「蟹河原(ガニガワラ)長者」と呼ばれていたらしい。タケミナカタが諏訪を征服するとき、洩矢神服従したが矢塚雄神は最後まで抵抗した。しかし流れ矢に当たって倒れ、娘をタケミナカタに奉ると言い残して死んだ、という伝承があるそうだ。

この遺跡から見上げると、上の道路からの高低差がよく分かる。

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右上にあるのは、上の道路沿いにある矢嶋内科医院の駐車場の基礎部分だ。崖の上にせり出すような形で駐車場が作られているのが分かる。少し下がった場所から全体を眺めてみると、こんな感じである。

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上蟹河原遺跡の前を通り過ぎて、さらに北に進む。先ほどの看板にもあったとおり、このあたりは地下水が豊富と見えて、小路に沿って綺麗な小川が流れている。

しばらく進むと、「うとう坂」と呼ばれている細い階段状の道の中腹に出る。その坂を少し下ってすぐ右に曲がると、そこにお社がある。

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大矢嶋氏の祝神(一族の守り神)の「大天白社」である。このあたりは「矢島・矢嶋」という家が多いが、矢塚雄神の末裔であり、代々、栗林郷の領主を務めてきた家柄であるらしい。とても立派なお社だ。

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この大天白社の前を通り過ぎるとすぐに、左に曲がる道があり、その少し先にも右に曲がる道がある。まずは右に曲がる道のほうへ向かってみよう。

 

真新しいアパートの角を曲がると、がらんとした空き地に出る。

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一見、ただの崖下の空き地のようだが、よく注意して観察してほしい。ここには3つの祠があるのだ。

 

まずは一番右、木の陰になって見えづらいが、横向きの小さな鳥居があるのが分かるだろうか。この鳥居をくぐると、上の道に繋がる非常に細い階段があって、その中ほどの脇に小さな祠がある。『天白紀行』によると、矢崎氏の祝神を祀る「大天白社」であるようだ。

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この崖にはこのような、人ひとり通るのがやっとという、家々に挟まれた細い階段がいくつも存在する。知らなければそこにこんな階段が存在することすら気づくまい。しかし、この撮影の間、地元の中学生と思しき少年がこの階段をトトトッと駆け下りてきて、訝し気な視線を私に向けて去って行った。地元の人にとっては日常的な通路なのね。不審者と思われなかったかしら(;^_^A

 

お次は、この鳥居の近くの樹の下にある小さな祠。

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あまりにも小さいので、なかなか気づきにくいが、こちらが「天白七五三社」であるようだ。七五三と書いて「しめ」と読む。祭神は矢塚雄神(蟹河原長者)。ここはかつての屋敷跡であるそうだ。

 

左側にある鳥居は割と目立つので気づきやすい。こちらは四軒矢島氏の祝神を祀る「大天白社」だそうだ。

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さて、これらの天白がすべて崖の下もしくは崖の中ほどにあることに意味があるように見える。というのも(まだ勉強中なので大声では言えないが)、天白のお社は、崖崩れのおそれのある場所や、水害のあった場所に建てられることが多いようなのだ。私が前々から関心を寄せていた「なぜ神社は断層の上に建っていることが多いのか?」という疑問に繋がっているような気がする。やはり先人たちが子孫に向けて残していった何らかのメッセージなのだろうか。うーん。

 

アパートの角まで戻って、あたりを見回すと、おや、すぐ近くにこれまたお社があるではないか。

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こちらは、同じく横内に多い「小川」一族の祝神。こちらは「御社宮司社」とはっきり書いてあるからミシャグジを祀っているのだと分かる。こちらも大変立派なお社だ。

さらに見回すと、この隣の建設会社の裏にもまた鳥居が見えた。が、そちらは完全に民家の敷地内だったので控える。こんなふうに、あちこちの家の敷地内に祝神の祠らしきものが垣間見えるのだった。

 

先ほどの曲がり道を、今度は左に曲がってみよう。

すると、そのすぐ先にあるのが「達屋酢蔵(たつやすくら)神社」である。

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こちらは、横内地区を統べる小宮(その地区の中核的な神社)であり、素晴らしく太い御柱に囲まれた、威風堂々とした神社である。右隣に見える建物は横内公民館であり、古来からこの地区の人々はこの場所に集っていたのであろう。

御柱が素晴らしいのには理由がある。この神社は、諏訪に数多ある小宮の中で唯一、本宮と同じ八ヶ岳御小屋神林から御柱となる御用材を伐り出しているのだ。なぜ達屋酢蔵神社だけにそのような特権が与えられているのかは分からなかった。

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達屋酢蔵神社、という奇妙な長い名前は、実のところは「達屋神社」と「酢蔵神社」という2つの神社が合わさったものである。オオナムチ(オオクニヌシ)などが祭神とされているが、この説明にあるように、それらは明治以降に定められたものであって、本来の祭神は天白神、そして五龍女神である。おっと、この説明では天白神の横にしれっとミシャグジの名が添えられているではないか、えー。またややこしくなってきた……。

と思ったら、本殿の裏に小さな祠が2つ並んでいる。

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気になって調べてみたら、よく参考にさせていただいている「from八ヶ岳原人」さんのサイトで詳しい解説が記載されていた。いつもありがとうございます。

yatsu-genjin.jp

from八ヶ岳原人さんの研究結果によれば、これがどうやら御社宮司社(ミシャグジ)と山之神であるようだ。小川氏の祝神を移したものであるとも。ふむふむ。

よく分からなかったのは、鳥居の近くにあるこちら。梅の紋がついている。これもまた、どこかの一族の祝神であろうか。

【追記】再度訪問した際に確認したところ、天神社でした。あ、だから梅紋か、そっかそっか。

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境内には、蟹河原の小川から流れ込む水路があり、鯉が泳いでいた。樹木がどれも大きくて風格がある。近所の子供たちだろうか、熱心に鯉の泳ぐさまを見ていた。

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さて、先ほどの説明看板の中にあった五龍女神はどうなったのかと言うと、ここから直線距離で700メートルほどの先、上川を挟んだ対岸にある、宮川の「中河原」という場所にある「姫宮社」に遷座されたらしいことが伝わっている。

この「姫宮社」は、私の旦那の生まれた宮川安国寺地区の小宮であるとのことで、以前、旦那に案内してもらったことがある。

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この中河原は古くから度重なる水害に悩まされていた地域だという。そこで、仲の良い横内から、水神・産土神として五龍女神(伍竜女宮大明神)をお迎えしたらしい。

「水害」というキーワードが出たことでピンときた方もいらっしゃるかと思うが、そう、ここにも天白が祀られている。この撮影時にはまだ天白にさほど関心がなかったので、お社の写真はないが、その横にあった御柱の写真があった。「天白天神御柱」と書かれている。こちらの天白は「川天白」と呼ばれ、波間(はま:浜)氏の祝神であるようだ。

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さらに、この川天白には言い伝えがある。「この土地の人は、この天白様の下流からでなければ魚はとらない。天白社より上流で魚をとると祟りがある」ということらしい。そして正月にはとってきた魚をこの川天白に捧げる風習があるのだそうだ。

 

さて、そろそろこの散歩を終わりにしよう。

謎めいた神・天白については、どうやら水や崖に関わりがある存在であることが、地形を見ながら歩くことで理解できた。しかしながら本を読むと、他の地域ではまた別の属性を与えられているらしく……ふー。やっぱり諏訪の神々はややこしい!そこが面白い!

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