※本記事には、映画の舞台となった1960年代の社会情勢における、性的マイノリティの方々に対する侮蔑的表現が含まれています。また、映画の内容に関するネタバレがあります。あらかじめご了承ください。
甲府市のシアターセントラルBe館へ、『ブルーボーイ事件』という映画を観に行ってきました。シアターセントラルBe館は4年前に濱口竜介監督の『偶然と想像』を観に行って以来の再訪です。甲府市内唯一の映画館ですが、しばらく休館されていたので、再開の報を聞いた時にはホッとしました。
さて、『ブルーボーイ事件』は、1960年代に実際にあった事件(裁判)を元にした映画です。
1965年、オリンピック景気に沸く東京で、街の浄化を目指す警察は、街に立つセックスワーカーたちを厳しく取り締まっていた。ただし、ブルーボーイと呼ばれる、性別適合手術[*当時の呼称は性転換手術]を受け、身体の特徴を女性的に変えた者たちの存在が警察の頭を悩ませていた。戸籍は男性のまま、女性として売春をする彼女たちは、現行の売春防止法では摘発対象にはならない。そこで彼らが目をつけたのが性別適合手術だった。警察は、生殖を不能にする手術は「優生保護法」[*現在は母体保護法に改正]に違反するとして、ブルーボーイたちに手術を行っていた医師の赤城(山中 崇)を逮捕し、裁判にかける。
(公式サイトより抜粋)
映画の制作は日活。映画開始時に流れる日活のロゴマークが、現在のものではなく、1960年代後半に使われていたものになっています。そしてその流れから、東京オリンピックなどに沸く高度成長期の新聞記事やテレビ画面などがスクリーン上に次々と表示され、映画の時代背景を端的に伝えてくれます。
そして物語は、警察による歓楽街の一斉摘発の場面から幕を開けます。逃げまどう売春婦たちは取り押さえられ、ロープに一列にくくられて警察署に連行されます。その中には、なぜか余裕たっぷりな様子のメイやアー子たちもいます。女性の格好をしていても戸籍上は男性である「ブルーボーイ」の彼女たちには、当時の売春防止法は効果がないことを知っているからです。無罪放免になり、ウインクしながら警察署を後にする彼女たち。
画面が切り替わり、喫茶店で働く楚々とした女性の姿が現れます。本作のヒロインである「サチ」です。サチには同棲している恋人・篤彦がおり、つつましくも幸せな日々を過ごしています。しかし、篤彦と睦み合う途中で、サチは太股に伸びてきた篤彦の手をそっと押しとどめます。「……ちゃんと女になってからにしたいの」と言うサチ。そう、サチは戸籍上は男性で、睾丸摘出と陰茎切除の性別適合手術をし、近日中に女性器の形成を控えていたのでした。篤彦はそれを既に知っており、指輪を差し出してプロポーズします。笑顔で寄り添う恋人たち。
ひそやかに暮らしていたサチの前に、狩野弁護士が現れます。性別適合手術をした赤城医師が優生保護法違反で逮捕され、裁判にかけられると言うのです。赤城医師の弁護を任された狩野弁護士は、実際に赤城医師に性別適合手術を受けた者を証人として出廷させようと考え、サチに白羽の矢を立てます。しかし、サチは自分が「ブルーボーイ」であることを周囲に公言しておらず、今の生活を壊したくないと狩野弁護士の頼みを断ります。
しかし、赤城医師が逮捕されたことで、サチは女性器の形成手術ができなくなってしまいました。途方に暮れてあちらこちらの医院を訪ね歩きますが、どこからも断られ、唯一引き受けてくれた診療所は不衛生で信用できません。困り果てたサチは、かつて勤めていたゲイバー仲間のアー子と再会します。歌と踊りが大好きなアー子はショーパブを開業しようとしていました。サチはアー子のために青いドレスを作ってやります。
アー子は「アタイたちが堂々と生きられる理想の世界を作りたい」と、証人として法廷に立ちます。「アタイは女よ。生まれた時からずっと女なの」と訴えるアー子。しかし、検察官はアー子に、男性の身体であった頃に男性器は勃起したか?自慰はしたか?その際に精液は出たか?とプライバシーに関わる露骨な質問を容赦なくぶつけてきます。週刊誌の記者を含む傍聴人たちはアー子の反応にニヤニヤ笑うばかり。
けれども、アー子の尊厳を最も傷つけたのは、当の狩野弁護士の発言でした。アメリカの事例を研究してきた狩野弁護士は、赤城医師が「正当な医療」を施したことを立証するために、アー子たちは「身体の性と認識が一致しないという精神病患者」であると主張したのです。その言葉に激しく憤り、涙を流しながらアー子は叫びます。「アタイらは普通よ!普通に悩んで生きてるの!」
傷つけられたアー子は酒に溺れ、酒場で侮辱してきた男たちと喧嘩をしたあげく、死んでしまいます。アー子の死に、サチやメイたちは深く悲しみ、狩野弁護士は自分がブルーボーイたちを理解しようとしていなかったことを深く悔やむのでした。
そして、ついにサチは法廷に立つ決意をします。「私は女です」と訴えるサチに、検察官は「女にはメンス(月経)がある。形だけ女になってもあなたは女には決してなれない」と冷たい言葉を放ち、サチの心を傷つけます。週刊誌にはサチと篤彦の姿がすっぱ抜かれ、平穏な日常は壊れていきます。それでも、サチは引き続き法廷に立って訴えます。「私は、男でも女でもありません。私は私です」と────。
観ているうちに胸が苦しくなり、喉の奥にひりつく痛みを感じていました。私が子どもの頃は、まだトランスジェンダーという言葉は存在しておらず、ゲイもドラァグクイーンもトランス女性も、雑にまとめて「オカマ」と呼ばれていた時代でした。性転換手術というものがあるのは、カルーセル麻紀さんの存在などで知っていましたが、テレビなどでは「オカマはモロッコにでも行ってこいや!」などという言葉が平然と発せられており、その言葉に出演者も観客もドッと笑う、というシーンをよく見かけました。
私が子どもの頃の、いわゆる「オカマタレント」といえば、おすぎとピーコさんや日出郎さんなどでしたが、バラエティ番組などでは「色もの枠」的な扱いを受けていました。その時代の後ですが、売れていなかった時期の藤井隆が自身の芸人としてのキャラ付けのために「オネエキャラ」を演じていたこともありましたね。オカマ、オネエは笑われる存在、という暗黙の了解が、当時のテレビにはありました。今はどうだか知りませんが。
この映画は「トランスジェンダー女性」について描いていますが、その本質的なテーマは、性差や立場を越えて、「私が私であること」とはどういうことなのか、「居場所」とは、「幸福」とは、という普遍的な問題であると感じました。生きづらさを感じたことがある人にはきっと共感できる物語だと思います。
この物語は、憲法13条に定められた「幸福追求権」に言及して幕を閉じます。公共の福祉に反しない限り、誰もが幸福を追求する権利を持つ。その権利を奪うことが、果たして許されるのでしょうか、と────。
映画自体の話をすると、往年の日活映画を彷彿とさせる少しざらついた質感がいいですね。また、中盤から終盤にかけてのカメラワークがとても良いです。屋上でアー子の仲間たちが楽しげに洗濯をしているシーンでは、跳ねる水しぶきの向こう側にアー子とサチの姿を映し、アー子が仲間たちの幸福を守るために裁判に出る決意をする心情を美しく描いていました。また、法廷シーンを含む「主張」のシーンでは、主張している人物の顔を真正面からしっかりと映し、その目の力で観客を引き込んでいました。
キャストは実際のトランスジェンダー当事者の方々だということで、演技初挑戦の方も多かったそうですが、その少しぎこちない演技も、逆にリアリティを感じさせました。特にアー子役のイズミ・セクシーさんの法廷での懸命な演技には思わず涙がこぼれそうになりました。ヒロインのサチを演じた中川未悠さんも、つつましやかだけれども芯の通った、毅然とした演技をしっかりと演じ切ったと思いました。
メイ役の中村中さんは俳優としての実績も豊富で、さすがに貫禄のある演技でした。死んだアー子に化粧を施してやろうとして泣き崩れるシーン、火葬場で差別的な視線を向けられ、「オカマだって死んだら焼くのよ!」と叫ぶシーン、どのシーンも迫力があり、まともに扱われることを諦めたようなメイの心の奥底にある悲しみを表現していました。
狩野弁護士を演じた錦戸亮くんは、主人公サイドの人物でありながら物語の中盤まで迷走し、憎まれるという難しい役どころ。その複雑な揺らぎを上手く演じ切っていました。目を潤ませながら幸福追求権を主張するシーン、実に良かったですねぇ。
また、傍聴人の前でサチたちを公然と愚弄する、憎たらしい時田検事にも、その発言の根拠となる「思想」があることがきちんと劇中で語られています。こういうところはフェアな脚本だなと思いました。しかし、この時田検事の「思想」とまるっきり同じ言葉を、この事件から60年が経過した現在もしばしば目にします。すなわち、「個人の我が儘を全て聞いていたら、国家が滅ぶ」と。つい先日の同性婚を巡るニュースに対するネット上の反応でもしばしば見掛けたということは、やはり時田検事の思想を支持する人々は未だに大勢いるということです。それが是か非かは、私には判断ができません。しかし、やはり、そのような発言によって傷つく人がいるという事実は、肝に銘じておきたいと感じています────、少なくとも、私自身は。
いろいろなことを考えさせてくれる良い映画でした。上映館は現時点ではそう多くありませんが、少しでも多くの人に観てもらえたらいいなと強く思いました。先ほども言いましたが、性差を越えた普遍的なテーマを持つ映画です。性的マイノリティの話題だと身構えずに観ていただけたら、きっと何か心の中に響くものがあるだろうと信じています。

