つれづれぶらぶら

さて、そろそろ勉強に100%集中せねば(え、仕事は?)

『遠い山なみの光』

先週のオフ会の翌朝、少し二日酔いぎみではあったものの、新宿バルト9へ映画を観に行った。

sister-akiho.hatenablog.com

何を観たのかと言うと、カズオ・イシグロ原作の『遠い山なみの光』だ。


www.youtube.com

gaga.ne.jp

日本人の母とイギリス人の父を持ち、大学を中退して作家を目指すニキ。彼女は、戦後長崎から渡英してきた母悦子の半生を作品にしたいと考える。娘に乞われ、口を閉ざしてきた過去の記憶を語り始める悦子。それは、戦後復興期の活気溢れる長崎で出会った、佐知子という女性とその幼い娘と過ごしたひと夏の思い出だった。初めて聞く母の話に心揺さぶられるニキ。だが、何かがおかしい。彼女は悦子の語る物語に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実にたどり着く──。

(公式サイトより引用)

物語は、「悦子」という女性の半生を軸として、1982年のイギリスと1952年の長崎を行き来しつつ進む。イギリスパートにおける壮年期の悦子を吉田羊が演じ、長崎パートにおける若き日の悦子を広瀬すずが演じる。ルックスは異なるものの、髪型や、ちょっとした仕草などによって、不思議と同じ人物に見えてくるから女優はすごい。

まだ公開されて半月程度しか経っていない映画であり、なおかつ、テーマが「嘘」であることから、ネタバレはしないでおこう。ちょっとだけヒントを出しておくと、中盤ぐらいから少しずつ「違和感」が強くなってくる。キャラクターが「揺らぐ」とでも言っておくかな。とはいえ、それに気づいたとしても、ラスト10分の展開には驚くことだろう。ヒントはここまで。あとは劇場でお確かめいただきたい。

ストーリーについて触れないところでの感想はというと、やはり物語の中心となる「悦子」と「佐知子」を演じた3人の女優たち、吉田羊、広瀬すず二階堂ふみの美しさと、迫力のある演技について触れておきたい。

吉田羊が演じる「悦子」は、イギリスの片田舎で穏やかに暮らす母親という設定だが、娘にさえ自分の過去を話したがらない謎めいた女性である。いつも視線はどこか遠くをさまよっているようで、その横顔には深い後悔の陰がある。物静かな女性で、娘に対してもどこか一歩引いたところから見ているような雰囲気を漂わせている。人当たりは良いが、ちょっとした「嘘」でその場をしのぐような一面も持ち合わせている。そして、彼女は常に「草むらを必死で走る」という悪夢にうなされ続けている。

広瀬すずが演じるのは、その「悦子」が長崎にいた時代、新婚の主婦で、お腹に小さな命を宿した頃の姿である。貞淑で、夫や義父におとなしく奉仕する可愛らしい若奥さん、という風情ではあるが、実は、夫には言えない秘密を抱えており、それがお腹の子どもに対する不安にも繋がっている。華やかな世界に憧れる気持ちもありながら、それを表に出すべきではないという自制心も持っている。

二階堂ふみが演じる「佐知子」は、悦子が出会う謎めいた女である。華やかな装いに身を包み、言葉にも訛りがなく、ハイカラな女性という印象を持つが、川沿いのあばら家で万里子という娘を女手ひとつで育てているという過酷な境遇にある。進駐軍アメリカ人と交際しており、近いうちに必ずアメリカに移住すると言い切る。

3人(?)の女性が、表向きは何ごともないかのように振舞っているが、それぞれに陰の部分を隠し持っている。それが、映画全体にもうっすらとした息苦しさ、すっきりとしない重苦しさのヴェールのようなものを投げかけている。

さらに言うと、陰を抱えているのは彼女たちだけでなく、戦争帰りで指を失った悦子の夫にも、何かの目的を持って訪ねてきたらしい義父にも、心を閉ざしている万里子にも、悦子の二人目の娘であるニキにも、それぞれに「秘密」や「口にできない本当の気持ち」があり、それを隠して日々をやり過ごしている。いくつものヴェールが重なって、その向こう側にある「真実」を巧妙に見えなくしているのだ。

話を戻すと、物語の中で、彼女たちが感情をあらわにするシーンがいくつか存在するが、そこでの迫力ある演技に注目してほしい。それまでの抑えた演技との対比で、より一層、そのむき出しの感情が鮮明になる。その瞬間に隠されていた真実の一端がほどけ、「嘘」が少しずつあばかれていくのだ。特に広瀬すずの演技のメリハリは素晴らしい。

 

そんなわけで、ストーリー、脚本、キャストには不満はないのだが、唯一不満が残ったのは「美術」の部分である。端的に言うと、長崎パートの背景である。もちろん、1952年の長崎を再現することは不可能である、したがって、いくらかCGを用いることにならざるを得ない、そんなことは分かっている。しかしながら、あまりにも「質感」がのっぺりしていて、露骨すぎるセットも相俟って、別の意味で「嘘」くささが浮き彫りになってしまっていたように感じる。

とりわけ、イギリスパートと長崎パートが交差する場面では、「質感」の違いが気になってしまって、物語に対する没入感を削いでいた。イギリスパートのロケ地は素晴らしく、独特の「湿度と仄暗さ」がしっとりとした雰囲気づくりに役立っていた。だからこそ、その直後に長崎パートが挿入されると、いきなり画面がぺかぺかと明るく、妙に解像度が高くなって、背景のCGと人物が馴染んでいないシーンもいくつか散見され、書き割りの前で演じているような嘘くささがあった。

他の作品を引き合いに出して申し訳ないが、同様の違和感を感じたのが『ゴジラ-1』。白組による素晴らしいCGが魅力的であったものの、そのCGの中に人物が入ってしまうと、とたんにぺかぺかとした白々しさが出てしまっていたように感じる。CGがダメって言っているのではなくて、もうちょい仕上げの段階でうまく馴染ませられんかったんかねというところ。フィルタとか解像度とか、やりようはありそうな気がするんだけどな。せめてイギリスパートと色調ぐらいは揃えてほしかったっていうか。

 

そういう小さな不満はあったにせよ、観る価値はもちろんある。戦後80年で、あの時代を語れる人々が年々少なくなっている現状、そして近年とみに世界各国がきな臭くなっている現状において、こうした映画を通して(戦争について直接言及している映画ではないのだが、もちろん舞台が長崎であることに大きな意味はある)、戦争について思いを巡らしてみるのも重要だろう。ぜひ劇場で。