つれづれぶらぶら

旅行記はちょっとずつ仕上げていきます。お楽しみに~。

公開シンポジウム「諏訪の神と仏教」

今年は寅年。諏訪にとっては7年に一度の御柱祭Year。

前にもお話ししたことがありますが「御柱祭」は4月から5月にかけて行われる諏訪大社の二社四宮のお祭りだけではありません。諏訪6市町村の各地区に存在する「小宮(こみや)」と呼ばれる神社においても、同様に御柱祭が行われるのです。そんなわけで、今年は1年じゅう、週末にはあちこちで木遣り歌が歌われており、ヨイサ、ヨイサという威勢のいい掛け声が聞こえてきます。小宮の御柱祭は地元住民だけが参加する小規模なお祭りなので、のどかで和気あいあいとしたムードの中で行われます。

さて、そんな御柱ムードに沸く諏訪エリアでは、今年、これまでにない画期的なイベントが開催されているのです。

その名も「諏訪神仏プロジェクト」。

かつて、神仏習合の時代において、諏訪大社でも上社・下社それぞれに「神宮寺」と呼ばれる寺院が併設され、神職と僧侶が一緒になって神仏に祈りを捧げてきました。ところが、明治元年(1868年)に新政府が出した「神仏判然令」を引き金として、全国各地で廃仏毀釈の動きが起こったことは、皆さんもよくご承知のことと思います。

諏訪においても、五重塔やお堂の数々が打ち壊され、仏像は諏訪地域の各寺院に移されました。神と仏が分離されてから約150年後の今年、散り散りになっていたそれらの仏像を各寺院や博物館で一斉に公開する。そして、諏訪大社の神前で神職による祝詞と僧侶による読経がともに行われる。この壮大なプロジェクトは、かつての時代の信仰の姿を蘇らせようとする意欲的な試みなのです。

そんなわけで、現在、諏訪6市町村の25の寺社、諏訪市博物館(諏訪市)、諏訪湖博物館(下諏訪町)で仏像の特別公開などのさまざまな催しが開催されています。詳しくはこちら↓のリンク先をご覧くださいませ。

suwa-tabi.jp

さて、そのプロジェクトの一環として、今日、「諏訪の神と仏教」と題する公開シンポジウムが開催されましたので、聴講してまいりました。

会場となった諏訪市文化センターには熱心な市民の方々がたくさん集まっていました(コロナ対策で座席はひとつ飛ばしでした)。諏訪市長の挨拶に始まり、7人のパネラーの先生方の専門的な講演の後、パネラーの方々による総合討論があるという流れで、13時に始まり16時半に終わるという中々の長丁場のイベントだったのですが、どなたも最後まで熱心に聴講しておられました。

最初に登壇されたのは、名古屋市立大学特任教授の吉田一彦先生。テーマは「神仏の融合と分離――神宮寺の歴史と諏訪」。神仏習合は日本特有の現象であると考えられがちだが、実際にはアジアの仏教国には広く見られるものであるという話から、日本の神仏融合が「神道離脱」と「本地垂迹説の成立」という2つの段階を経て行われたこと、諏訪に仏教文化流入するのは比較的遅かったこと、諏訪の殺生を伴う祭祀(御頭祭など)と仏教の教えとの両立の問題など、幅広い内容でありながらコンパクトに解説してくださいました。

続いて、京都大学教授の上島亨先生が、「中世諏訪社における神事と造営」をテーマに、守矢文書などの古文書に基づくお話をしてくださいました。鎌倉時代には北条氏が上社頭役の主導権を握っていたこと、また、かつては諏訪大社においても大掛かりな社殿の式年遷宮が行われており、長野県内の広範囲に及ぶ郷に対しその造営費用の割り当てがあったこと、現在の御柱祭はその象徴として残ったものではないか……など、かなり専門的なお話でした。

続く原直正先生(諏訪神仏プロジェクト会長)は、「諏訪神社『御玉会』の神仏習合思想」と題して、近世の諏訪神社の「御師(おし)」が配り歩いていた「御玉会(おたまえ)」についてのお話をしてくださいました。御師というのは言わば「神々のセールスマン」であり、お札などを配って初穂料を頂く仕事をしていた人々のことです。諏訪大社の「御玉会」はとりわけ神秘な力を持つ尊い御符とされ、武田信玄、勝頼、徳川家光、さらには遠く長州萩藩の毛利家からも求められたものだそうです。また、甲賀三郎伝説に登場する「御玉井紙」という呪物を、実際に紙で再現して顔に当てて使い方を説明してみせ、この紙と宇賀神信仰の関連を説明されるなど、とても興味深い内容でした。昨今の「アマビエ」のお札や、顔を隠して厄を逃れる紙=マスクと似ているね、というお話には、中世と繋がる現代を感じることができて面白かったです。

短い休憩を挟んで、次は伊藤聡先生(茨城大学教授)の「中世神道・中世日本紀における諏訪明神」というお話がありました。「神は本当は仏である」という本地垂迹説の考え方から、諏訪大社の上社の本地仏(ほんじぶつ)は普賢菩薩、下社の本地仏は千手観音とされていること、さまざまな資料の中に見られる諏訪信仰、「諏訪流神道」とされるものが内部で制作されたのではなく、中世において、密教など外部からの再解釈を経た新たな諏訪信仰として成立したものであることなど、さまざまなお話をしてくださいました。かなり難しい内容だったので正直あまり理解が及びませんでしたが……。

続いて、石埜三千穂先生(諏訪神仏プロジェクト企画局長)は、今回のプロジェクトのメインである「仏像」に焦点を当て、そのうちの、下社に関連のある4つの仏像に絞って解説してくださいました。なぜ下社の仏像だけを紹介するのかということについては、諏訪大社の研究において下社側が圧倒的に遅れていて、逆に言うと、そのぶん新しい発見が今回たくさん見つかったということから、特に見てほしい4つの仏像に関するいくつかの謎を話してくださいました。どれもとても興味深く、これは下社側の仏像も観に行かねば!という気持ちがむくむく沸いてきました。

その次に登壇されたのは、私の母校である広島大学の教授である荒見泰史先生。諏訪信仰の話題からは少し離れて、「中国敦煌における地域の信仰と仏教」というテーマで、分かりやすい映像を用いて解説してくださいました。敦煌のさまざまな石窟などに描かれた絵画を比較して、同じフォーマットで描かれたものであっても、その中央にある主神の姿が地域によって異なること、それらの事柄から古い神々が、仏教と融合していく神、信仰が薄れていく神などさまざまに分かれたことが分かるのだそうです。また、「山の信仰」を示すものとして、敦煌の山々、広島の宮島の弥山、諏訪大社と佛法紹隆寺と守矢山の方位学的な関連性などをお話しくださいました。

最後に登壇されたのは、信州大学教授の渡辺匡一先生。「廃仏毀釈の様相」というテーマで、佛法紹隆寺に残された記録から、神仏分離令の布告の後、上社・下社の神宮寺の堂塔などの取り壊し、仏像の払い下げの決定などが具体的にどのように行われ、その中でどのような協議が行われたのか、日付を追って詳細に生々しく解説してくださいました。信仰していた寺をいきなり奪われた神宮寺村の人々の苦しみはいかばかりであったでしょう。政治と宗教の関わり合いの難しさを改めて深く考えさせる内容でした。

休憩を挟んで、最後はパネラー全員による総合討論。講義では1人20分と定められていたこともあって、話し切れなかった内容もいくつか残っており、そのあたりを補足説明する形で進められました。また、休憩時間の間に客席からの質問状の受付も行われていて、それらの質問も少し取り上げられ、それぞれの先生方の専門的な見地からの解説がありました。

 

テーマが非常に幅広く、かつ濃密な内容で、ある程度は諏訪信仰なり日本史なり仏教なり廃仏毀釈なりの知識を持っていないと、正直ついていけない高度な講義ではありました。私はLCVで放送されていた「すわっチャオ活き活きオンライン講座『御柱と諏訪信仰』シリーズ」をある程度見ていたり、諏訪市博物館で「御玉会」について教えてもらっていたりしていたから、なんとかかろうじて追いついていたかな(いや、いくつかの箇所では追いつけなかったな)という感じでした。『御柱と諏訪信仰』シリーズは前にもいくつか紹介したことがありますが、どの回もたいへん興味深いので観ましょう。特に今日の講義に関連があるのはこのあたり。事前に見といてよかった……。


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そんなわけで、近いうちに各寺院の仏像を拝みに回りたいと思います!その中には、本来は60年に1度の御開帳となる秘仏も今回特別に含まれていたりするので、こうして貴重な仏像を揃って見られるチャンスというのは一生のうちにあるかないかレベルですよ!この機会に、ぜひ諏訪へお越しくださいませ~!