つれづれぶらぶら

今期夏アニメの覇権は「しかのこのこのここしたんたん」で決まりだな。まだ始まってすらいないけど。

『GIFT』

濱口竜介監督の『悪は存在しない』(以下『悪は』)を観てからというもの、折に触れては、あの映画はいったい何を伝えようとしていたんだろう、あのラストシーンはどういうことなんだろう、タイトルが意味するものは何だろう、そもそも「悪」とは何なんだろうか、……と、牛がゆっくりと反芻するかのように、ふと思い出しては、考え続けている。

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こないだ思ったのは、濱口監督の映画と村上春樹の小説は似ているな、と。『ドライブ・マイ・カー』の原作どうこうという即物的な話じゃなくて。何というか、予定調和を迎えそうな雰囲気になったかと思った瞬間に、いきなり観客/読者を突き放すような展開を持ってくるところとか、結論に解釈の余地を残すところとか、そういうところが似ていると思う。濱口監督が『納屋を焼く』を映画化したらどんな感じになるのかな、イ・チャンドン監督の『バーニング』とはまた違う内容になるんだろうな、とか空想したりしている。

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そういえば、『悪は』が、諏訪地方観光連盟が認定する【諏訪シネマズ】の第7号に認定されたそうだ(そういう取り組みがあったことすら知らなかったのだが)。そして、ようやく地元の映画館である岡谷スカラ座で現在上映されている。来週からはイオンシネマ松本などの大手シネコン系でも続々と上映されるらしい。この映画が国内でも大きく広がってきていることが、諏訪に住む濱口監督ファンの一人として、素直に嬉しい。

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さて、前置きが長くなってしまったのだが、この『悪は』という映画が作られる発端となったのが、『ドライブ・マイ・カー』の音楽を担当した石橋英子さんが、自身のライブパフォーマンス用の映像作品を作ってほしい、と濱口監督に依頼したことであることは既にご承知の方も多いだろう。試行錯誤の末、濱口監督はいつもの制作手法でまず1本の「映画」を完成させ、そこから「ライブパフォーマンス用映像」を作ることにした。そこから生まれた「映画」が『悪は』であり、石橋さんの依頼に応えて作られた「映像」が『GIFT』である。『悪は』と『GIFT』は同一の素材を基にして別々に編集された双子のような関係の作品なのだ。

 

その『GIFT』。めったに上映されることがない希少な作品であるが、今回、東京のユナイテッドシネマ・アクアシティお台場で開催されている『爆音映画祭』の上映作品のひとつになっていることを知り、この機を逃してなるものかと、予約受付開始と同時にオンライン予約を完了したのだった。用意周到である。

www.unitedcinemas.jp

というわけで、今日、ユナイテッドシネマ・アクアシティお台場に行ってきたのだが、用意周到だったわりには、とんでもないポカをやらかして、13時ちょうどの上映開始に間に合わなかったという大失態である。何が原因だったのかは、また別の記事で詳しく語ることにするが、まぁ皆さんだいたいお察しのとおり、のんびりクラフトビールを飲んでいたことが敗因である。ああ情けない。悔やんでも仕方がないが、そのせいで開始時刻から8分ぐらい遅れて途中入場した。近隣の席の方々にはご迷惑をおかけして申し訳ない。深く反省している。

 

本題に移ろう。

先に言ったとおり、この『GIFT』は『悪は』のために撮影された15~16時間分の映像素材を再編集して73分のライブパフォーマンス用映像作品に仕上げられたものだ。この映像作品をスクリーンに映し出しながら、石橋英子さんがその場で音楽を重ねていく、というパフォーマンスなのだ。したがって『GIFT』においては、『悪は』における「音声」の要素は全て取り除かれている。台詞はもとより、銃声や薪割りの音といった効果音さえもない。

音声はないが、映画としての物語の部分は『悪は』と同じである。ネタバレになるが、あの衝撃的なラストシーンまで全く同じである。登場人物の紹介や、ざっくりしたあらすじは、真っ暗な画面の中に日本語と英語の2言語で表示されていく。

真っ暗なステージの上、ごくわずかな光に照らされて、石橋さんの姿が見える。大きなシンセサイザーを忙しく操っている。石橋さんはスクリーンを観ているが、過度に映像に寄り添ったりはしない。『悪は』で銃声が鳴り響いていたシーンに、わざわざ破裂音を付け足すような無粋な真似はしない。音楽は映像から一定の距離を保ちながら、感傷的になることなく、クールに進んでいく。

しかしながら、住民説明会のシーンでは、音楽もヒートアップしていく。このシーン、『悪は』ではかなり長いシーンであったが、『GIFT』では短めにカットが入れられ、スピード感のある映像になっている。石橋さんの音楽も、人々の対立する様子を表現している。

時おり、石橋さんがフルートを演奏することもあった。しかしながら、その音色はメロディアスなものではなく、風音や樹々のざわめく音を表現しているかのような「息」であり、それが映像とあいまって不思議な印象を残した。

『悪は』でも感じたが、この『GIFT』においても、全般的な印象は「不穏」であった。やや不協和音気味のベース音が長く続いたり、時に銃声に似た鋭い破裂音が鳴り響くこともあった(映像とは異なるタイミングで)。

とりわけ、『悪は』で流れていた町内放送のアナウンスが、終盤、音楽の上に被さるようにして流れ続けた。抑揚を欠いた平板なアナウンスは、ずっと聴いているうちに、ふと読経のような響きを帯びる。何か恐ろしいことが今まさに起きているのではないかという胸騒ぎを搔き立てる。そして、あの不条理なラストシーン。たちこめる霧。

同じ映像を使用しているとは言っても、映像に対し音楽が付随するのか、あるいは音楽に対し映像が付随するのかによって、これほどまでに受ける印象が変わってくるとは。このことを体感できたことは、とても貴重な体験であった。もちろん、言うまでもなく、石橋英子さんの音楽が素晴らしいのだということは当たり前のことではあるのだが。

 

ところで、私はこの映画のパンフレットを公開初日に塩尻東座で購入していたのだが、『GIFT』に関する内容については、なるべく読まないようにしていた。きっといつか観てやるんだと思っていたから、ネタバレしてほしくはなかったのだ。

『GIFT』を観終わって、ようやくパンフレットを丁寧に読み直したら、同じ映像素材を使って、『悪は』のほうは濱口監督自身が、そして『GIFT』は山崎梓さんという方が、それぞれ編集を担当していることが分かった。濱口監督と山崎さんは『寝ても覚めても』から一緒に編集を担当しているが、今回はあえて別々に編集を行ったのだそう。そして、驚いたことに、山崎さんには『悪は』の脚本が渡されておらず、山崎さんは話の内容が何も分からない状況で編集を行っていたのだという。そんなわけで、山崎さんはある意味では脚本の流れに左右されることなく、自由に映像を繋げ合わせることができたというのだが、なかなか思い切ったチャレンジではある。ちなみに山崎さんは黛が気に入ったのだそうで、『GIFT』の中には、『悪は』でカットされた、高橋が黛の写真を撮るというシーンが入っている。それ以外にも、『悪は』で使っていない映像が随所に入っているそう。いっぺん見比べてみたいな。

編集に関しては、『GIFT』のラストシーンに挿入された、花と巧のアップショットの意味が気になる。山崎さんがあのカットを置いた意味についても考えてみたい。

 

ともあれ、素晴らしい体験であった。遅刻したことは悔やまれるが、それでも参加して良かったと思う。ライブパフォーマンスは毎回異なるのだそうで、もし次に『GIFT』を観る機会があれば、ぜひまた参加してみたい。

 

それはそうと、────『GIFT』というタイトルの意味は、いったい何なんだろう?