つれづれぶらぶら

ワクワクしている時って、本当に胸の中で何かが踊ってるみたいな感覚あるよね。

『悪は存在しない』

濱口竜介監督の新作映画『悪は存在しない』を観に、塩尻市のミニシアター「東座」に行ってきた。東座を利用するのはこれが3回目。いつも良い映画を取り上げてくれている。

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濱口竜介監督の新作で、かつ地元の長野県富士見町や原村をロケ地として撮られた作品であるにもかかわらず、現時点で長野県内の上映館はこの東座を含めて3館のみ(他は長野市の相生座ロキシー上田市の上田映劇)。もっと盛り上がってもいいとは思うんだけどね。今日は東座での公開初日、午前10時の最初の上映回に参加。観客は客席の半分ほどの40~50人程度、中高年層の割合が高め。若い人はあんまりいないね。

どういう雰囲気の映画かをお伝えするのには、予告編を観てもらうのが手っ取り早いんだけど、個人的にこのアメリカ版の公式トレイラーが全体の雰囲気をよく伝えていると思ったのでこちらを貼っておこう。


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長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

(公式サイトより転載)

映像がとにかく綺麗。富士見町・原村の冬の景色の美しさがスクリーンに満ち溢れている。開始直後、白い冬空と樹々の枝の黒いシルエットが長回しで流れ続けるが、外の初夏の暑さを忘れ、冬の八ヶ岳周辺地域の、あの冷え冷えとした空気に逆戻りしたような錯覚を覚える。

さて、まだ公開直後ではあるし、ネタバレはしたくないと思ってはいるのだが、何しろ、さっき観終わったばかりで、ラスト5分の衝撃的な展開に非常に困惑しているところだ。まだ何をどう考えればいいのかすら掴み切れていない。この状態で何を書けるのか──、と悩ましいところではあるのだが、しかしながら、逆に、この現時点の困惑した感情をそのまま記事に残しておきたいとも思う。

いつもならば、ちゃんとパンフレットを読み込み、監督のインタビュー記事等にも目を通して、ある程度は自分の意見をまとめて書くように心がけている(実践できているかは定かではない)のだが、なんとなく、なんとなくだが、そうやって「観たものを自分のフィルターに落とし込んで整理し、理論的にアウトプットする」という作業自体が、もしかしたら、この映画には向いていないのではないかと思うのだ。

 

まずは、最初に言っておこう──、とても分かりづらい作品である、と。

 

濱口監督にしては短めの106分。だが、その中で流れる時間は非常にゆっくりとしている。濱口監督作品では既にお馴染みの、異様なまでの長回しが、今回は特に目立っていたと感じる。オープニングの樹々のシルエットからの、巧が薪割りをする、煙草を吸う、湧水の汲み場で黙々と水を汲む──、ここまでの一連の流れがとても長い。知らないおじさんが黙って野良仕事をしているのをただただ見守っているだけ。他の監督だったらおそらくこのあたりはサクサクとカットするところだ。

水汲み場に和夫がやって来て、ようやく最初の台詞が発せられる。ただ、説明らしき台詞はほとんどなく、どうやら和夫はうどん屋を営んでいて、巧はその手伝いとして水を汲んだり野草を摘んだりしているのだということが何となく分かってくる。そのシークエンスの最後になってようやくグランピング場建設計画の話題が出てきて、物語はおもむろに動き始めるのだ。

トレイラーでも使われている、巧と花が森の中を散策するシーンはとても美しい。8歳の少女の好奇心に満ちた視線は、森の中のさまざまな自然の姿を映し出す。マツとカラマツ、鳥の羽根、子鹿の死骸、一面に凍った池が湧水の部分だけ凍らずに残る「鹿の水飲み場」。どうやら母親を早くに亡くしたらしい花は、いつもひとりぼっちで森の中を歩き回っている。父親である巧は、花に深い愛情を抱いているのだが、なぜかいつも花を学童保育に迎えに行くことを忘れてしまう。

 

「なぜ」が非常に多い映画だ。とりわけ主人公であるはずの巧については、そのほとんどの背景が語られない。一見すると朴訥で親切な田舎のおじさんだが、謎がとても多いのだ。なぜ一人で花を育てているのか。なぜ地域の人々の便利屋のようなことをしているのか。お金には困っていないと言うが、何をして稼いでいるのか、あるいは何をしてきた人物なのか。部屋にあるピアノは誰のものか。何を考えているのか。怒っているのか。悲しんでいるのか。なぜすぐに忘れてしまうのか。

 

分かりづらい。

 

唯一の分かりやすいシークエンスは、東京の芸能事務所の社長とコンサルタントの部分だ。住民説明会で立樹が糾弾したとおり、このグランピング場建設計画はそもそもが補助金の受給を目的としたもので、商売としてどのようにグランピング場を運営していくのかはほとんど考えられておらず、ましてや地域住民の生活、地域の環境保護などということは全く頭にないということが、醜悪なまでにストレートに表現される。

そのグロテスクな計画の矢面に立たされたのが高橋と黛。彼らは既にこの計画にうんざりしており、高橋は巧の生き方に憧れのような感情を抱く。高橋と黛は芸能事務所側の人物であるが、悪人として描かれておらず、住民と会社の間に立たされて揺れ動く人物として描かれる。ただし、直情型で浅慮なタイプの高橋に対し、黛は熟考型で真摯ではあるが昏い過去があるらしい含みを持った人物として描かれている。そういう点では、黛もまた分かりづらい人物ではある。余談ではあるが黛役の渋谷采郁さん、『ハッピーアワー』では、新人看護師の柚月を演じていらっしゃった。あの、あかりにしょっちゅう叱られていた彼女ね。

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パンフレット読み直してようやく気付いたが、うどん屋の夫婦ってハッピーアワーの桜子(菊池葉月さん)と芙美の旦那(三浦博之さん)か。住民説明会の佐知の台詞んとこでなんか既視感あったんだよなぁ

 

高橋と黛が車中で会話するシーンも、やはり長い。車中の会話シーンがひたすら長いというのはもはや濱口監督の代名詞と言ってもいいんじゃなかろうか。しかも話の本筋にはほとんど関係のない、高橋と黛の結婚観などに関する雑談なのだ。なぜこんなシーンを長々と回し続けるのだろう。そう思う人は多いはずだ。

 

分かりづらい。

 

そして、巧を通じて、高橋と黛が地域の暮らしに触れ、ほのかな共感のようなものが生まれた──、かと思った瞬間に、物語は思いもよらない方向に急展開する。観客の理解を置き去りにしたまま、画面はブラックアウトし、キャストとスタッフの名前を掲示して、あっけなく終わる。

 

噓だろう。

 

起承転結で言えば、起にたっぷりと時間を費やし、承で物語が動き始めたかと思いきや、いきなりの転、そして転じたとたんに終わる。

 

嘘だろう。

 

濱口監督のことだから、ここからまた120分ぐらいたっぷり時間をかけて、じっくりとその後の人々の様子を描いてくれるんだろう。また激しい議論があり、登場人物ひとりひとりのはらわたの音を聴くかのごとく綿密に丹念に描いてくれるんだろう。えっ、これトイレ休憩?『ハッピーアワー』のときみたいに、10分後から再開しまーすってアナウンスがあるんだろう、なぁ、そうだよな?

謎がひとつとして解き明かされないまま、そして最後に鮮烈な謎をいくつも残したまま、音楽はいきなり終わり、スクリーンに光は戻ってこない。明るくなった館内には、困惑した表情の観客が、いちように口を閉ざしている。いま何を目撃したのか分からないまま。

まぁ、『ハッピーアワー』もそんな感じではあったから、いまさら驚きはしない。それまでの5時間弱の長い物語の中で、比較的おとなしい穏健派の存在であった桜子と芙美が、最後の最後にいきなり思いがけない行動を起こすというラストだった。この先どうなるんだろうという答を安易に用意してくれないのが濱口監督の持ち味であるとも言える。原作付きではあったけど『寝ても覚めても』もそんな感じだったしね。言い換えれば、『ドライブ・マイ・カー』はちゃんと救済という形の結論がついた形で終わるから親切な映画であったとも言えるのかしらん。

 

ともあれ、分かりづらい映画であることは間違いない。そして、この物語の「結」は、観客がそれぞれに心の中で考察し、熟成させていかなければならないのだろう。ヒントめいたものはいくつか散見されるとしても、安易な答えは映画の中にはない。

私の総論としては、映画に分かりやすさやスッキリ感を求める人は観ないほうがいい、という感想。『ドライブ・マイ・カー』に対し「分からなかった、退屈だった」という感想がちらほら見受けられたが、多分そういう人は観ないほうがいい。世の中にスッキリ感を提供してくれるコンテンツはたくさんある。ましてや、最近話題になっている、自分に合わない映画を視聴した時間を「損失」と受け止めるような人たちには観てほしくないな、いち映画愛好家としてはさ。

自分の胸に刺さった棘、自分の理解度のフィルターに漉し取られずに引っ掛かったままの異物、そういったものをゆっくり噛んで反芻していきたいと、私は思う。好物や食べやすいものだけを食べるような生活は自分自身を脆弱にし、肥大化させると思うから。

 

ここからは、ややネタバレありの考察。あくまでも現時点での私の心の中にあるものを自分用の手控え的に書き出しておくに過ぎないので、もちろん答えなどではない。

この映画のテーマは、一見すると「環境保護」に見える。住民説明会や東京の芸能事務所のくだりに注目すると、そう見える。田舎の豊かな自然を守りましょう、上流を汚すと下流にまでその悪影響が広がります、動物の生息域を守りましょう、バランスの取れた節度ある自然との共生は大切です、云々。

もちろんそれは主題の大きなひとつを構成しているのだけれども、そこだけを抜き出すとこの映画の理解を狭めてしまう気がする。やはり濱口監督が描きたいのは「人間」なのではないかと思う。コミュニケーション/ディスコミュニケーション。人と人が理解し合うというのはどういうことなのか。中盤の巧と高橋・黛の会話の中に、そのヒントがあったような気がしている。

巧が、野生の鹿は2メートル以上跳躍するので少なくとも3メートル以上の柵が必要になる、と高橋たちに教える。野生の鹿は人間を襲うのかと黛が尋ね、手負いでない限り、野生の鹿は人間を襲わない、と巧は答える。黛は、ならばむしろグランピング客と鹿が触れ合う機会があるのは素敵なことではないかと言う。しかし、巧は野生の動物にはどのような病原体が付着しているか分からないので触れてはいけないと却下する。高橋は、野生の鹿が人間を恐れるのであれば、グランピング施設ができれば鹿は近寄らなくなるのではないかと言う。巧は、その鹿たちはどこに行くのかと彼らに尋ねる。高橋も黛も、その問いに答えることができない。

この巧の問いは、その前の住民説明会のシークエンスでの、うどん屋を営む佐知の台詞が伏線になっていると考える。水質が悪化したら私がここに移住してきた意味がなくなってしまう、という佐知の訴えに対しても、高橋と黛は答えることができなかった。それでいて、高橋は芸能事務所での処遇に嫌気がさして(逃走)、安直にも一時の衝動に駆られてグランピング場の管理人をやる(移住)と口走ってしまうのだ。この自己矛盾に高橋は最後まで気づけなかった。そこにコミュニケーションの欠落が存在する。

それにしても最大の謎はこのタイトルだ。悪は存在しないという言葉に、どういった意図が含まれているのだろうか──。