つれづれぶらぶら

今日一日頑張ったら3連休!お楽しみを用意しているのでめっちゃワクワク。おしごとがんばろ。

『ハッピーアワー』

昨日、「長野相生座・ロキシー」まで映画を観に行ってきた。長野相生座・ロキシーへの訪問はこれが3回目になる。

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茅野⇔長野の往復だけで6時間以上かかるというのに、今回観に行った映画は、なんと上映時間が総尺5時間17分という大作(3部構成で、途中2回休憩を挟む)なのだ。つまるところ、私がこの映画を観ようとすれば、丸々半日を費やさねばならないということだ。普段ならそれだけで尻込みしてしまうところだが、今回、どうしてもこれを観たい動機があった。

なぜなら、『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』を作った、濱口竜介監督の過去作『ハッピーアワー』だから、だ。米国アカデミー賞の行方が気になって仕方がない今、過去作を劇場で観られるという貴重な機会を逃してなるものか。っていうか、相生座では1月に『親密さ』と『PASSION』も上映していたらしい。くっ、出遅れた……。他県ではまだ間に合う劇場もあるみたいだけど、どうしたもんかねぇ。

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『ハッピーアワー』は2015年に公開された映画である。この映画は、2013年9月~2014年2月に開催された「即興演技ワークショップ in Kobe」から誕生したものであり、ほとんどの登場人物を演技未経験者がつとめた意欲作である。

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とはいえ、キャストがアマチュアであるということは、たいした問題ではない。4人の主演女優を含む全てのキャストがしっかりした演技をしていて、むしろ、素人だからこそリアリティのある演技ができたのではないかとさえ思った。実際、この映画において4人の主演女優はロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞している。

 

この物語は、神戸の街を舞台に、30代の4人の女友達が、それぞれの抱える問題に向き合おうとするドラマである。あらすじは長いので省略。とりあえず予告編から、ざっくりとした内容を把握していただこう。


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結論を先に述べてしまうならば、これも『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』と同じく、「コミュニケーション/ディスコミュニケーション」を主題とする映画である。おそらくは濱口監督が一貫して持っているテーマなのだろう。そしてそれは、この作品においてかなり明確な形で表現されていた。

第一部の序盤において、4人は鵜飼というアーティストが主催する「重心に聞く」という身体表現ワークショップに参加する。それは他人との身体の触れ合いを通じた非日常的なコミュニケーションの実験であり、背中や額をくっつけ合ったり、相手の腹に耳をくっつけて「はらわたの音」を聞いたりする作業の中で、彼女たちは幸せな時間を過ごす。ここで表現されているのは非言語的コミュニケーションである。

しかし、日常に戻れば、彼女たちはそれぞれの家庭や職場に問題を抱えている。離婚訴訟中の夫婦、セックスレスの夫婦、仲は良いが深い会話ができない夫婦、看護という職場のストレス。そして、女たちの友情もまた、時としてお互いの心を傷つける。曖昧な微笑みを浮かべ、その場を穏やかにやり過ごそうとすればするほど、そのバランスはぐらぐらと不安定になっていく。それはあたかも、重心を失った椅子が、激しい音を立てて倒れてしまうかのように。

他の濱口監督作品と同じように、この映画においても中心となっているのは「対話」だ。人々が語り合うシーンがとても多い。それは1対1の親密な会話であったり、複数人が参加するイベントの打ち上げの席であったりするが、お互いのプライバシーのかなり深い部分に踏み込んだ、時として心の傷をえぐり合うような激しさを持った、真剣勝負の「対話」である。

そして、やはり、この作品においても、誰かが心の奥に秘めた大事な言葉を口にするとき、カメラはその人物を真正面から映し出すのである。『ドライブ・マイ・カー』の高槻の車中での告白シーン、『偶然と想像』で瀬川教授が奈緒の価値を認めるシーンなどを思い出していただきたい。スクリーンの向こうから、その人物の目が真っすぐにこちらを見つめてくる。私を理解してほしい、このままを受け入れてほしい、というメッセージがストレートに伝わり、観客はその問題をいつしか自分のこととして受け止めるのである。この「観客を物語の当事者にしてしまう」演出法が、濱口監督作品の最大の魅力なのではないかと思う。

この『ハッピーアワー』においては、特にその「当事者に巻き込まれる感」が強かった。なんせ、その序盤の身体表現ワークショップからして、その最初から最後まで、ほぼノーカットで延々と繰り広げられるのである。まるで、私自身も「5番目の友達」として芙美に誘われ、その場を訪れ、ワークショップに参加したかのような気分だ。鵜飼に若干のうさんくささを感じつつも、そのわけの分からないワークショップをそれなりに楽しんでしまった。さらに、第3部でも「朗読会」が延々繰り広げられるのである。無名の新人女性作家が読み上げる短編小説を、ただひたすら聴かされるのである。電車ではるばる長野までやってきて、うさんくさい身体表現ワークショップやら、退屈な朗読会やらに「参加」させられているわけだ。もはや私と映画との間にスクリーンは存在せず、私は彼女たちの近くでその現場に立っている感覚なのだ。

まぁ、一事が万事こんな調子だから、この映画が5時間を超えてしまうのはもう仕方がないのだ。編集でカットの鋏をばんばん入れて、物語の核の部分だけを取り出してしまえば、この作品は3時間程度で収まる話なんじゃないかなと思う。ストーリー自体はそれほど複雑ではなく、メロドラマによくある普遍的な物語だから。

ただ、そうしなかった。濱口監督は『偶然と想像』のような切れ味の良い短編も作れる。にもかかわらず、この作品でこんなにもゆったりとした時間を演出する意図はどこにあるのか。

例えば、滝の前で記念写真を撮ってくれた人物(葉子)と、たまたま純がバスの中で再会し、葉子が語る「父親がしょうもない嘘をつく」話を聞くというシーンは、大きな物語の流れからすれば、ほとんど意味がないエピソードのように見える。葉子がバスを降りて行った後、純は黙ってバスの外を見ている。こういった、ある登場人物がただ黙ってじっとどこかを見ている(あるいは目を閉じている)様子を描写するだけのシーンに、とても長い時間が費やされたりもする。

これらのシーンにおける登場人物の思いは、いっさい観客には伝えられない。安っぽいドラマなら安直なモノローグで思いを饒舌に語らせるところだが、それはしない。観客はひたすら考え、それぞれが想像するしかない。『ドライブ・マイ・カー』のエピローグが観客によってさまざまな解釈を生んだように、「これはどういう意味なんだろう?」「どういう意図があるんだろう?」と考えさせる。観客を映画に関与させる。観客ではなく当事者にする。観客に緊張感を与え、想像力をフル回転させる。5時間17分もの長い映画であるにもかかわらず、私は少しも眠くなかった。ずっと弓を引き絞ったままのような緊張感が、私の脳を刺激していた。心地よい体験であった。

 

いや、まぁ、物語の内容に触れていないから何が何だかよく分からない文章になっていることは自覚している、ごめん。

鵜飼のワークショップは、最初はただの日常風景の1シーンかと思いきや、あのワークショップ自体が物語の中で大きな意味を持っているのだな。それぞれの参加者も最後のあたりまでちょいちょい4人に絡んでくるし、うさんくささMAXの鵜飼はストーリーの分岐点に現れては事態をややこしくしていく「トリックスター」的な存在だし。あと、ちょいちょい壊れかけた人間関係を修復しようとする手段として「スキンシップ」が行われていたのも興味深い。手を合わせたり、抱きしめたり、お腹の音を聞いたり、キスしたり。ラストシーンで芙美をそっと抱き寄せるあかりの姿が良かった。非言語コミュニケーション。あ、あと、ふがいない息子に無言でポカリと拳を落とすおばあちゃんの姿も良かったね。昔だったらあれ平手でパンパーンだったろうね。今は嫁さんが孫にパンパーンなんだけど。これもまた非言語コミュニケーションのひとつの形かと。

 

ああ、本当にちゃんとした文章になってない。濱口監督の作品はいつも感想がまとめにくい。たくさんのことを考え続けてしまうから、まとまらなくなっちゃうのよ。それぐらい没入していたということだと理解していただけるなら幸いなんだけど。

そんなわけで、『ハッピーアワー』に関しては、パンフレットはもちろん買ったんだけど、それに加えて、劇場の売店で『カメラの前で演じること――映画「ハッピーアワー」テキスト集成』という濱口監督の本を購入してしまった。ワークショップからこの映画ができるまでの制作にまつわる話と、そして『ハッピーアワー』全編の脚本(第7稿。完成形に限りなく近いが微妙に違う)、そしてキャストに配付された「サブテキスト」という本編の裏にあったであろうシーンを練習用に作成した未使用の脚本がまとめて収められている。濱口監督ファンならこれは絶対に買い。濱口監督の演出に対する姿勢などがよく理解できる。現在まだ読みかけだけど、めちゃめちゃ読み応えあるぞ。ファンなら今のうちに買っておこう。マストバイ。