つれづれぶらぶら

旅行記はちょっとずつ仕上げていきます。お楽しみに~。

『カラオケ行こ!』ふたたび

前回の記事の続き。

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で、国立駅からまた立川駅に戻ってきたわけなんですが、そんでもって、いったい何の映画を観に来たのかというと、先月観た『カラオケ行こ!』をもういっぺん観に来たわけなんです。

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いやー、あれ以来、頭の中でずーっと『紅』が流れ続けてましてねぇ。もちろん原作漫画の『カラオケ行こ!』と続編の『ファミレス行こ。(上)』、それに映画のシナリオブックまで買って読んだんですが、そうすると原作と脚本の違い、脚本と完成した映像の違いなど、色々な部分を再検証したくなりまして、こりゃもういっぺん観るしかねぇなと。つーか、端的にもっぺん観たいなって、ええもう、早え話が観たかったんすよ。

ネット上の評判もおおむね好評ですね。Filmarksの評価点が4.1で、観た人の感想を読んでいると、まぁ熱っぽく語っている人の多いこと多いこと。何度もリピートして観てます、という完全に沼ハマっちゃった人もけっこういらっしゃるようで。都内では未だにチケット完売の回もあったりして、人気の高さが窺えますね。

とはいえ、そろそろ上映終了になる映画館も出始め、上映回数も1日1回、しかもレイトショーonlyみたいな上映館も増えてきたことから、観に行くんなら早いうちが良かろうと思いましてですね、昨日(17日)に立川シネマシティ(シネマワン)に行ったわけなんですよ。なんで立川を選んだかっていうと、タイムテーブル的に一番便利が良かったことと、さらに【極音上映】だったからです。あの『紅』を、めっちゃええ音で聴きたい、そう思ったからなのです。

 

前回の記事は、封切直後だったこともあってネタバレを極力避けて書きましたけど、今回は語りたいこと全部書きたい。あれもこれも喋らせてくれ~!ってなわけで、以下、映画『カラオケ行こ!』及び原作漫画『カラオケ行こ!』『ファミレス行こ。(上)』のネタバレ満載でございます。ネタバレを避けたい方は、このあたりでブラウザバックのほど、よろしくお願い申し上げます

もういいかな。では。

 

前回、映画を観に行った時点では原作漫画をほとんど読んでいなかった(序盤の試し読み程度)ので、どこが原作どおりでどこが映画オリジナルなのかが分かっていなかったんだけど、原作を読んでみると、予想以上に映画オリジナルの部分が多かったんですねぇ。

私が一番笑った、聡実くんの両親が「愛を与える」シーンは、原作にあると思い込んでたんですよね。だって、あのすっとぼけたテンションの低い感じ、いかにも和山やま的じゃないですか。1ページのコマ割りが容易に想像できますもんね。

聡実くんが(分からん……、愛は与えるものってなんなん……)とかモノローグで言いながら食卓でご飯を食べている。ふと、目線を上げる聡実くん。母親がぺりぺりっと剥がした焼き鮭の皮を「あげる」言いながら無造作に父親のご飯の上に載せている光景。表情はほとんど変わらずに、ほんの少しだけ目を見開く聡実くん。ご飯の上の鮭の皮のアップ、そこに(愛は……与えるもの……?)という追いモノローグ。

こんな感じの1ページがあるもんだと思ってたんですよ私は。ないんですね原作には。にもかかわらず完璧に和山ワールドだというね。野木亜紀子さんすげえ。

和山ワールドといえば、合唱部の描写のほとんども映画オリジナルなんですけど、あそこにいる女生徒たちが『女の園の星』っぽいなと思っていたら、シナリオ集に収録された野木亜紀子さんのインタビューによると、やっぱりそこは意識したんだそうで、山下監督にもそのようにイメージしてくださいと伝えてあったんだそうで。こういう細かい部分をちゃんとスタッフ間で詰めてあったから、シーンとしての違和感がなかったんですね。副部長の中川さんの「わーだー」っていう言い方とか、周りの女の子たちが「中川なにしてんの」「子守り」「えらいなー」って呆れたように見ているのとかね。

 

逆に、これは映画オリジナルだろうと思っていたら原作にあって驚いたのは、狂児の誕生日ですね。昭和55年5月5日。ああ、綾野剛さんだから「ゴー」とか仮面ライダー555(ファイズ)にひっかけてんのかな、ってキャストありきのメタ設定だと思ってたんですけどね、しっかり原作どおりでビックリしましたとも。

 

原作との違いという点で挙げるなら、合唱部の後輩の和田くんのキャラがかなり違うんですね。原作では聡実くんからは一歩引いたようなスタンスで、どちらかといえば客観的な視点で聡実くんを見ている大人びた後輩って感じ。でも映画では聡実くんへのリスペクトを相当にこじらせまくった、思春期真っ盛りの潔癖症の直情少年って感じで、全然違うんでやんの。でも映画としては、この和田くんのキャラがものすごくウザ面白かったっす。まだ精神的に幼すぎて、自分ではなんでも分かっているつもりだけど、実は何にも見えていない。この映画自体が「聡実くんが子どもから大人になっていく物語」なんだけど、和田くんの存在はその聡実くんの前身である「子ども」の投影であって、それによって物語の厚みを増しているわけなんですね。

 

原作と映画の違いを挙げていたらキリがなくて、個々の台詞は原作どおりだけど、その台詞を言っている場面が違うのとかもけっこうたくさんありました。

例えば、聡実くんが「狂児のアホ!」と怒鳴るシーンは、原作では、聡実くんが「宇宙人」に捕まって狂児に助けられた直後。何をしてもうまくいかない苛立ちや自分の未熟さにイライラして、わけもわからず狂児に当たり散らしてしまう、というシーンでした。それが映画では、合唱部のトラブルに巻き込まれて三角関係のような形になってしまっているところを狂児に見られ、青春だねとニヤニヤ言われたことに腹を立てたことに起因して怒鳴る、というシーンになっています。

比較すると、映画の聡実くんの怒りのほうが筋が通っています。逆に言うと、原作の聡実くんのほうがより不安定です。これは先ほど述べたように、聡実くんの中の「子どもっぽさ」は、映画では和田くんに半ば投影されていることによるものではないでしょうか。

では、映画において、聡実くんが「宇宙人」に捕まって狂児に助けられた直後のシーンはどうなっていたかというと、屋上で狂児と語り合うオリジナルシーンになっています。このシーンは映画の中でもとりわけ美しく、変声期によってソプラノボイスがうまく出なくなってしまったという聡実くんの苛立ちが、狂児の言葉によって救われるという内容になっています。このシーンの2人の親密さは実にいいですね。シナリオでは「刺さってもうた矢、抜いて~」という台詞はないので、あれはアドリブなんでしょうかね。このシーンすごく好きなんですけど、なんと公式が切り抜き動画をUPしてくれたっていうね。嬉しいですね。皆も好きでしょ、このシーン。ね。


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ちなみに、「あー、ひっさびさやわー、光合成」という台詞もシナリオにはありません。まぁ、これは最初に映画を観たときから、絶対アドリブやろなと思ってたんで、やっぱそうですよねという感想しかないんですけど(笑)

 

ところで、色んな方のレビューを読んでいると、「この漫画/映画は【BL】か否か」という議論も巻き起こっているようです。これね、私も迷っているところなんですよね。どちらかと言えば、原作のほうがよりBLっぽさがあります。なんせまぁ、『ファミレス行こ。』の上巻の終わり方が、まさかの聡実くんからのバックハグという衝撃的な展開だったもんで、えええええええってドキドキしちゃいましたよ。あれを見た後でもう一度『カラオケ行こ!』から読み返すと、あれもこれもBLっぽく読めてしまう。

映画のほうは、聡実くんにやたら身体をベタベタ近づけたがる狂児がね、特にあの「狂児さんの声域に合う曲リスト」を説明している聡実くんの横顔を愛おしげに見つめているところとかね、綾野剛さんの色気ダダモレでしたけれども、それでも、BLというよりは青春映画っぽいよな、と。そう思えるのは、やっぱり生身の齋藤潤くんの純粋さ、穢れのなさ、潔癖さによるものなのかなぁと解釈してみました。なんかね、性的な意味づけをすることに躊躇してしまう。まだ君はそのままでいて、オトナの視線のフィルターに歪められないで、という母親のような気持ちになってしまうっつーか。

ところで、『カラオケ行こ!』の原作では、全編を通じて聡実くんの心の声(モノローグ)が多用されているのですが、ラスト近くで、そのモノローグは、聡実くんが高校の卒業文集に書いた作文であることが判明するわけです。要するに中学3年から高校3年までの3年間、聡実くんはずっと狂児の記憶を反芻していたってことですよ。「追いかけ続けてしまいそうで怖い、記憶の中のあんたは俺の心の中で光ってるで……ピカピカや……」を3年間、ずっと。多感な時期の中高生に、それはごっつキツいで。

まぁ、こんな蛇の生殺しみたいな3年間を送っていたからこその、『ファミレス行こ。』でのあの屈折した態度になるのかもしれませんけど。『ファミレス行こ。』はモノローグがほとんどないから、聡実くんが何を考えてるのかが分かりにくいんよなー。下巻では幸せになってほしいけどなー、聡実くん。なー。

 

映画の話に戻ると、シナリオ的に上手いなと思ったのが、合唱曲とか古い映画とかにそのシーンの聡実くんの心情を託しているところですね。冒頭のシーンで合唱部が歌っている『影絵』、歌う聡実くんの顔のアップ、そこの歌詞が「戸惑いながら覚悟している」。この歌詞の意味が、その後の映画の内容に響き合ってくる仕掛けなのですね。変声期によって歌えなくなってしまうことや、やがて来る大切な誰かとの別れを、ここで予兆という形で示唆しているわけです。また、白米の上できらめく鮭の皮のクローズアップには、『心の瞳』の「愛すること/それがどんなことだか分かりかけてきた」という歌詞が被さり、これが後のげんきおまもりに繋がっていくわけなんですが。

こういう、台詞で何もかも説明してしまわないで、観客の心の中で物語を完成させるように上手く手助けをしてくれる脚本や演出が、いいなと思ったところですね。あんまり何もかもきっちり物語の中で説明されちゃうと、空想の余地がなくなっちゃうじゃないですか。観客/読者が、物語を観/読み終わった後で、ひとりひとりの心の中で、あのとき彼はなんであんな表情をしていたのかなとか、もしかしたら彼はこう考えていたのじゃないのかなとか、そんなふうに妄想を繰り広げるのが楽しい、それこそが物語の醍醐味なのであってね、この映画はその仕掛けが本当に上手だったから、これだけの人々が沼にハマり、劇場に足しげく通って何度でも物語を反芻しようとしているんじゃないかと思いますね。

 

ところで、最初に述べたとおり、今回は立川シネマシティの【極音上映】で観たわけなんですが、その威力が最大限に発揮されたのは、やっぱりエンドロールの『紅』でしたよ。


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極音上映だと、Little Glee Monsterの歌声よりも、高校生の合唱のほうが強調されて聴こえますね。特に男声パートの低音の厚みがすごかった。いい曲やなぁ、『紅』って、と胸にジーーーーンと響いてきちゃいましたよ。いやぁ、音響が良いのって、やっぱたまりませんなぁ。

 

えーと、えーと、まだまだ語りたいことはいっぱいあるんだけど、綾野剛さんのあのセクシーな低音で「……ね?」って耳元で囁かれたらそらやられるわなぁとか、さすがに映画では「女も聡実くんも乗り心地がよろしいんでしょうなぁ」の台詞はカットされてましたなぁとか、映画を見る部の栗山くんのテンション低い感じも和山テイストが上手く表現されてたよねとか、えーと、うん、ね、話し出すとキリがないんだけどね、やっぱりこの映画最大の見せ場は、聡実くんの歌う『紅』ですよ。

あのシーンは、今回もやっぱり涙腺を直撃しましたよ。あの変声期の少年にしか出せない、魂をぶつけるような歌声はたまりませんね。収録当時に中学3年生だった齋藤潤くんの、この二度と巻き戻せない「一瞬」を逃さずに映像に刻み付けた、その奇跡のような一瞬が、もうどうしようもなく尊くて、観客ひとりひとりの胸の中でいつまでも光ってるわけなんですよ、ピカピカや……。

 

というわけで、4年後ぐらいには、成長した齋藤潤くんと綾野剛さんの『ファミレス行こ。』が上映されたらいいなぁ、と切に切に祈っておるところです。やだもうあのバックハグとかどうなっちゃうのかしら。あああ。妄想の沼に落ちちゃいそう……。