つれづれぶらぶら

今日一日頑張ったら3連休!お楽しみを用意しているのでめっちゃワクワク。おしごとがんばろ。

映画『ドライブ・マイ・カー』の原作としての『ダンス・ダンス・ダンス』

以前の記事の続き。

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映画『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹のいくつかの作品を組み合わせて作られている。正確に言えば、そこにチェーホフブレンドされているわけだが、恥ずかしながらチェーホフは未読で語る資格を持たないため、ここではスルーさせていただきたい。

さて、映画『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹の連作『女のいない男たち』に収められた3つの短編、『ドライブ・マイ・カー』、『シェヘラザード』、『木野』が基になっている、というのは公式に発表されている。私の個人的な印象としては『木野』に軸足が置かれていると思った、というのは以前お話しした。このへんは観客それぞれに受け取り方が違うと思う。

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ただ、前にも言ったとおり、この3時間もの映画は、これら3つの短編の要素だけで構築されているわけではなく、むしろそれ以外の要素が大量に含まれた、ほぼオリジナル作品である。にもかかわらず、全編を通じて、この映画は「村上春樹らしさ」に満たされている。初めて観たとき、一瞬「あれ、これって村上春樹の長編小説が原作だったっけ」と勘違いしてしまったぐらいに、デジャヴに似た感覚が残るのだ。

濱口竜介監督は昔からの村上春樹ファンだそうだから、その他の作品の要素も取り込んでいらっしゃるに違いない。それもかなり確信犯的に。

もちろん、そんなことは私ごときが気付くよりも先に、とっくの昔に多くの方々のレビューの中で語られている。その中でもとりわけ目立つのが『ダンス・ダンス・ダンス』との類似点である。

ダンス・ダンス・ダンス』は、村上春樹のデビュー期に書かれた、いわゆる「鼠3部作」と総称される、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』に繋がる作品で、そのうちの『羊をめぐる冒険』の直接的な続編(後日談)として書かれたものである。

(※以下、これらの作品のネタバレを多く含みます。)

羊をめぐる冒険』は、主人公の親友である「鼠」というあだ名の青年から送られた1枚の写真に起因して、広大な北海道で「星形の斑紋の羊」を探し出すというミッションに巻き込まれてしまう物語。

ダンス・ダンス・ダンス』は、『羊をめぐる冒険』の4年後の物語であり、前作のラストで多くのものを喪失した主人公が、忘れてきた自分自身の半分を取り戻すために、再び北海道を訪れる物語。

絶対的な悪の象徴としての「羊」、超常的な力を持つガールフレンドの耳、「あちら側の世界」の境界にある「いるかホテル」、主人公を導く「羊男」、サイコメトリーの能力を持つ美少女、6つの白骨のある部屋、などなど、村上春樹の幻想世界を味わうためのたくさんの要素がふんだんに盛り込まれている。舞台装置自体はファンタジックではあるんだけれども、そこから受ける悲しみや後悔といった感情はリアルに我々読者の胸を打ち、世界中の多くの人々の共感を呼んできた名作だ。

 

この『ダンス・ダンス・ダンス』に登場する「五反田亮一」という人物が、映画『ドライブ・マイ・カー』の「高槻耕史」のモデルなのではないかと、多くの人々が指摘している。

五反田君は主人公の中学校のクラスメイトで、成績優秀、スポーツ万能、クラス委員としても有能、皆の憧れの的だった。主人公とは理科の実験班が同じだったが、彼がガスバーナーに火をつけるときのエレガントな姿に好感を抱いていた。その五反田君は、現在は売れっ子の俳優であるが、与えられる役柄はいつも似たようなものだった。

どの映画も映画として全然面白くなかったし、彼はいつも判で押したような同じ役しかやっていなかったからだ。ハンサムで、スポーツ万能で、清潔で、足が長い役だった。始めのうちは大学生の役が多く、それから先生とか医者とか若いエリート・サラリーマンとかの役が多くなった。でもやることはいつも同じだった。女の子が憧れて騒ぐ役なのだ。(第8章より抜粋)

主人公は五反田君と再会し、親しく交際するようになる。マセラティを乗り回し、シックな服装に身を包み、高級コールガールを呼んでは愉しく遊び、傍目からは何一つ不自由なく暮らしているように見える五反田君。だが、そんな五反田君の心の中には「深くて暗い穴」があり、それに起因する破壊衝動を隠し持っていた。

殺意なんてなかった。僕は自分の影を殺すみたいに彼女を絞め殺したんだ。僕は彼女を絞めてるあいだ、これは僕の影なんだと思っていた。この影を殺せば僕は上手くいくんだと思っていた。でもそれは僕の影じゃなかった。キキだった。でもそれは闇の世界で起こったんだ。こことは違う世界なんだ。わかるかい?(第39章より抜粋、太字も原文ママ

五反田君は、演技する自分と根源的な自分とのギャップが大きくなっていて、もはや自分の中の破壊衝動がコントロールできなくなっていることを主人公に告白した後、マセラティとともに芝浦の海の底に沈んでいく。

 

この五反田君に似たキャラクターとしては、短編『納屋を焼く』の「彼」が思い起こされる。ご存知のとおり、この短編小説もまた、2018年にイ・チャンドン監督によって『バーニング 劇場版』として映画化されている。映画の中で「ベン」と名付けられた上流階級の「彼」は、時おり他人の納屋にガソリンをかけて放火していると主人公に告白する。ただし、原作/映画ともに、本当に「彼」が放火活動を行っているのかは明らかにされない。それが単に文字どおり「納屋を焼く」行為だけに留まるのか、それとも何か他の意味を持つ比喩なのかという不穏な匂いを漂わせる。そして「彼女」が行方不明になる――という不気味な物語である。

 

映画『ドライブ・マイ・カー』の高槻はハンサムな人気俳優だが、自身が空っぽであることを自覚しており、自制心がなく、後先を考えずに女性との性交渉を結んでしまう。そして、過去に未成年者への淫行を写真週刊誌にすっぱ抜かれたことで失脚し、それ以降、シャッター音を聞くと逆上して暴力をふるってしまう。そして、舞台稽古の最中に割り込んできた警察官によって、自分の犯した傷害致死罪を告げられた瞬間、高槻はスッキリしたような微笑みを浮かべる。

このように、高槻と五反田はとてもよく似ている。濱口監督が高槻のキャラクター造形に当たって、五反田を意識したことはほぼ間違いないのではなかろうか。

 

ところで、『ドライブ・マイ・カー』と『羊をめぐる冒険』にはもうひとつの共通点がある。それは「十二滝」という架空の地名である。

羊をめぐる冒険』のクライマックスとなる舞台は、北海道にあるという「十二滝町」である。山の奥地にあり、雪が積もってしまうと誰も訪れることができないという無人の地で、絶対悪である「羊」に憑りつかれてしまった鼠は、完全に支配されてしまう前に、羊を吞み込んだまま自殺する。羊男がその亡骸を埋める。屋敷は鼠の意思を引き継いだ主人公によって爆破され、全ては深い雪の下に覆い隠されていく。

『ドライブ・マイ・カー』においては、渡利みさきの出身地が「上十二滝町」であるとされている。もっとも、これには事情があって、原作が最初に文藝春秋に発表された際は、別の実在する地名があてられていたのだが、クレームを受けたため、『女のいない男たち』に収める際に架空の地名に改めたものである。つまり、原作においては、みさきの出身地が「上十二滝町」である必要はなかったのである。

ところが、映画『ドライブ・マイ・カー』においては、みさきの故郷が「十二滝」であることは大きな意味を持つ。それがクライマックスの舞台となるためだ。家福とみさきは十二滝を訪れ、深い雪の下に埋もれた廃墟を目撃するのである。

さらに言えば、『羊をめぐる冒険』において、十二滝町のシーンにはしばしば静けさが強調されている。例えば、主人公とキキが鼠の屋敷にまもなく到着するという場面では次のような文章が挿入されている。

おそろしく静かだった。風の音さえ広大な林の中に吞み込まれていた。(第8章の4より抜粋)

これを踏まえると、映画において、北海道の原野を走るシーンで一切の音響をカットした演出の意図がなんとなく分かるような気がする。もしそうだとすれば、どこまで細かい部分に配意された映画だろう。「細かすぎて伝わらない」って、濱口監督じゃん、まさに。

 

五反田君や「十二滝」というあたりは、誰の目にもその関連性が分かりやすい部分だけれども、それ以外にも、『羊をめぐる冒険』と『ダンス・ダンス・ダンス』がこの映画の原作であると仮定して深読みするならば、色々と重なり合ってくるものがある。

ダンス・ダンス・ダンス』において、主人公は「自分自身の半分」が、札幌の「いるかホテル」の中にある「あちら側の世界」に残されたままであることを知る。『羊をめぐる冒険』において主人公をいるかホテルに導いたのは、不思議な耳を持つガールフレンド(キキ)だが、彼女は物語の途中でいなくなってしまう。しかし、幻想世界のキキはその後もしばしば主人公を導く存在として登場するのである。

映画『ドライブ・マイ・カー』において、家福は妻の死後、チェーホフのテキストを演じるのが恐ろしくなり、俳優業を辞めて、演出家として活動するようになる。「俳優としての自分」が家福の半身であったとするならば、いるかホテルは「舞台」であるとも解釈できるだろう。演技することとはテキストに身を委ねること、と家福は高槻に言ってきかせるが、それゆえに、妻の死の直後に『ワーニャ伯父さん』を演じ切ることが家福はどうしても耐えられず舞台から逃げてしまったのである。しかし、家福の車の中では『ワーニャ伯父さん』の台詞を読み上げる死んだ妻の声が今も流れ続けているのだ。

だとすれば、家福の妻である音が「キキ」に当たるだろうか。キキは主人公と五反田君の両方と関係を持ち、どちらにも愛されていた。そして、キキが五反田君の映画に出演していたことに起因して、主人公と五反田君は再会し、交流を深めていくことになるのだ。キキは既に死んでおり、幻想として主人公を導く。死んだ音の声を封じ込めたカセットテープが、しばしば物語の真相を示唆する装置として用いられていたことを考えれば、なるほど、音にキキのイメージが重ね合わされていると考えてもいいような気がする。

では、みさきはどうだろう、と考えて、私は「ユキ」かなと考える。性格が全然違うじゃないかと言われそうだが、ともに「母親から虐待を受けている」という共通点を持ち、また、ユキがこの物語において主人公をあっちこっちに連れ回す存在だと考えれば、ある種の「運転手」的存在だと言えなくもないかな、と。

また、みさきには「嘘を見抜く」能力が備わっており、高槻の言葉が嘘ではないと証言している。こう考えると、高槻の言葉の中に「私が殺した」というフレーズが含まれていることは実に意味深である。『ダンス・ダンス・ダンス』において、キキの死を見抜いたのは、サイコメトリー能力を持つユキである(おそらくは犯行に使用されたであろうマセラティに対しても、ユキは拒否反応を示す)。

だとすると、みさきに虐待を与えていた二重人格の母親は「アメ」だろう。アメはエキセントリックな芸術家であり、写真の仕事に熱中すると、自分の娘であるユキの存在をまるっきり忘れてしまい、あちこちに置き去りにしたまま何か月も戻ってこないという呆れた人物である。主人公から「もっと母親としての責務を果たすべきだ」と忠告されてもなお、「私は、親とか娘だとかいう以前に、あの子と友達になりたいの」と平然と答えるのである。

この、母親の責務は放棄するが、娘とは友達でいたい、という願いが、みさきの口から語られる母親のもう一つの人格「サチ」として実現したと考えることもできるのではないか。サチは、母親がみさきに暴力をふるった後に決まって出現する幼女の人格であり、みさきにとって唯一の親友であったのだと言う。

また、ひとつの肉体の中に悪なるものと善なるものが混在し、それを一体のものとして死に至らしめる、というふうに解釈すれば、みさきの母親に、羊を呑み込んだ鼠のイメージも読み取ることができる、というのはさすがに穿ち過ぎか。いや、でも、ここは「十二滝」で、倒壊した建物が雪の下に埋もれている、し。そこまで深読みしてもいいんじゃないかしらん。

ユキは最終的にはアメから離脱し、自立に向けて一歩を踏み出す。みさきもまた、赤いサーブと犬を伴って、新たな生活を送っていることが語られる。映画の終わり方には様々な解釈がひしめき合っているが、みさきがこのコロナ禍の今日も元気で暮らしている、それでいいじゃないかと私なんかは思う。みさき可愛いから。

 

あと、音が「アメ」だと解釈しても面白い気がするな。芸術家で、強烈なカリスマ性で男たちを魅了し、その男たちから才能を吸い取って自分の芸術に昇華していくアメ。仕事で関わった男性俳優たちと次々と関係を持ち、性交の最中において、あたかも交霊術のように物語を語り出し、それを自らの脚本家としてのキャリアに生かしている音。この2人の女性もまた相似形であるとも言える、かと。

 

そうなると、ユミヨシさんは誰に当たるんだろうとか、羊男はどう解釈すればいいのかとか、色々と考えが膨らんでいっちゃうけど、とりあえず今回はここまで。

 

最後は、この響き合う2つの台詞を――

「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を、生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練に、じっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、他の人のためにも、今も、歳をとってからも働きましょう。そして、最期がきたら、おとなしく死んでいきましょう」

(映画『ドライブ・マイ・カー』劇中劇『ワーニャ伯父さん』よりソーニャの台詞)

「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するぐらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」

(『ダンス・ダンス・ダンス』第11章より抜粋)