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さいとうちほ版『少女革命ウテナ』

『ちゃお』という雑誌名を口にしてしまうと、この漫画について黙っていることは、私にはどうしてもできないのである。

少女革命ウテナである。 

 1996年から1998年にかけて『ちゃお』に掲載された少女漫画。作者名は「まんが/さいとうちほ、原作/ビーパパス」と表示されている。

もちろん、多くの方が既にご存知であるように、『少女革命ウテナ』は幾原邦彦監督の代表作であるTVアニメーションでもあり、後にフェミニズム論・ジェンダー論など多くの議論において題材とされてきた問題作にして不朽の名作である。 

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では、この漫画版『ウテナ』はアニメーションの原作かと言われると、それは違う。アニメーションのコミカライズかと言われると、それも違う。

漫画版『ウテナ』とアニメ版『ウテナ』は、最初からメディアミックス作品として、同じ卵から生まれた双子として存在するのである。

そもそも、原作者として表示されている「ビーパパス」なる謎の集団は、アニメ監督・幾原邦彦、脚本家・榎戸洋司、アニメーター・長谷川眞也、漫画家・さいとうちほ、プランナー・小黒祐一郎の5人で構成され、『ウテナ』関連作品や、そういえば今ググるまで忘れてたけど『SとMの世界』なんてのもあったなぁ!――を制作するユニットである。

 

前々からこのブログでも言っているのだが、『少女革命ウテナ』というアニメは私の人生において大きな意味を持つ作品なのである。

現実的な話をすれば、旦那と某アニメ雑談系サイトで初めて出会った時に、好きなアニメについて語ろうというテーマに対して、2人同時に『ウテナ』が好きと答え、では好きなキャラクターは誰かという問いに対しても、2人同時に「アンシー」と即答したという事柄が、そもそもの馴れ初めなのである。あの時は本当にビックリしたなぁ。ウテナ好きは珍しくないにしても、アンシーが好きって答える人はほとんどいないんだよ。

それ以外にも、『ウテナ』を見て「アニメの演出って面白いな」と気づいて絵コンテ集を買って読むようになったこととか、小林七郎さんの背景美術や、J・A・シーザーの音楽などへの関心、そして何よりも『ウテナ』という作品の中に複雑に囲い込まれている数多の隠喩・テーマ性などについて考えることが多くて、20年を経過した今もなお「一番好きなアニメ」と即答できる作品なのである。

 

――と、今日はアニメ版の話をするつもりじゃなかったんだ。アニメ版の話をするとおそらく私の筆は止まらなくなってしまうので、それはまたいずれということにして、今日は漫画版『ウテナ』の話。

そもそも、なぜ少女漫画家のさいとう先生が『ウテナ』に参加しているのかというと、オリジナル作品の企画に悩んでいた幾原監督が、ある日偶然書店で見た雑誌の表紙に飾られたさいとう先生のイラストに「熱病のように」惹かれ、ぜひ新企画に加わってほしいとの熱烈なオファーを受けたためだった。

当初の企画は「エレガンサー」と呼ばれる男装の少女戦隊が、「世界の果て」という悪の組織と戦うというSFものだったらしい(コミックス5巻の巻末付録)が、それが紆余曲折を経て、最終的に『ウテナ』の形になったらしい。

薔薇が舞い、光あふれ、見目麗しい少年少女達が、剣を手に戦うストーリー。宝塚歌劇団の舞台を彷彿とさせる豪華で華やかな画面作りは、さすが少女漫画界をリードしてきたさいとう先生ならでは。ピンクの学ランに身を包み薔薇を背負ったウテナさまの、なんとまぁ、潔くカッコ良いこと。

 

漫画版の『ウテナ』は、プロローグである『薔薇の刻印』のエピソードから始まる。まだウテナが鳳学園に入学する前、インテリアコーディネーターの叔母の保護下で青嵐中学に通っていた頃のエピソードだ。

幼い頃に両親を亡くしたこと、そのショックのために死にかけたウテナを助け励ましてくれた青年と、彼が残した指輪のこと、それから毎年決まって届く薔薇の刻印の手紙のことなどが語られ、最終的に、ウテナは友人や叔母と別れて、鳳学園へと旅立っていく。

アニメ版の前日譚という位置づけになっているが、『ウテナ』全編を通じて、兄妹以外の血縁者が登場するのは極めて珍しい。あ、劇場版で冬芽・七実の親がちらっと出たっけか。実の子を売り飛ばす最低な親であったが。

 

漫画版の『ウテナ』は、アニメ版に比べると登場人物が少ない。そのため、人間関係もアニメ版とはかなり異なり、例えば、樹璃はアニメ版では幼馴染の少女・枝織を密かに慕う同性愛者として描かれるが、漫画版では生徒会長の冬芽に執着する気位の高い少女として描かれている。アニメ版で冬芽に執着する気位の高い少女といえば七実であるが、彼女はほんの1コマしか登場しない。つまり漫画版の樹璃は「樹璃-枝織+七実」という感じの立ち位置である。

このあたりの改変は、やはり掲載誌『ちゃお』が小学女児をターゲットとする雑誌であり、あまり複雑な内容にならないようにという配慮からきているのだろう。

 

そして、後半で語られるディオスと暁生とアンシーの関係が、やや異なる。

漫画版ではディオスと暁生は、ふたつの心でひとつの体を共有する「光のディオス」と「闇のディオス」という神であり、闇のディオスが光のディオスに反乱を起こしたことで体がふたつに分かれたのだと語られる。そして闇のディオスは「世界の果て=暁生」となる。光のディオスは消えるはずだったが、その寸前に、光のディオスを愛するアンシーによって、光のディオスをその力ごと「城」に封印して救った。しかしその反作用として、アンシーはそれ以後「世界の果て」へ従属し、「薔薇の花嫁」として決闘の勝者の言いなりになる宿命を負わされ、愛する王子ディオスとは永遠に結ばれない――という「呪い」を受けることとなる。

アニメ版では、ディオスの妹であるアンシーが、王子として民衆に尽くすディオスの苦痛を見過ごせなくなって監禁し、そのために民衆の呪いを浴びて魔女となった――んじゃなかったっけな。ディオスと暁生の関係についても、アニメ版では明確にされていなかったように思う。ディオスの成れの果てが暁生、って感じじゃなかったっけか。

 

ともあれ、アンシーが呪われた姫君であることは同じであり、その呪いとは、平たく言えば「与えられた役割への隷属」である。妹であること。魔女であること。決闘の景品であること。勝者の望むかたちでいること。「姫君」であること。

このアンシーが背負わされた強烈な暗喩、この作品のテーマ性そのものが、フェミニズムの観点から多く論じられてきたところである。お姫様はひたすら美しく、自分では何も考えたり行動したりせずに、白馬に乗った王子様が訪れるまでおとなしく待ち続けるべしとする考え方。眠れる森の美女に白雪姫、そして『アリーテ姫』。 

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対するウテナは、一見、自分の思うとおりにふるまい、自我を持ち自立した少女のように見えるが、実際のところはアンシーと同じ「呪い」を浴びた姫君である。

その呪いは、アンシーと同じく、消えゆく寸前のディオスによりもたらされる。

生死の境をさまよう ぼくと同じ孤独な目の少女 この子に託そう

ぼくの心を 勇気と気高さを――

ぼくが力をあげたから 君は強く気高く生きてゆける

もしも君が その気高い思いを失わなければ その時には――

(5巻 ディオスの台詞) 

このディオスの言葉が呪いとなって、幼いウテナの心を縛る。そしてウテナは「王子さまになりたい」と宣言し、男装をし、薔薇の刻印の手紙に導かれ、再びディオスに会うために鳳学園にやってくることになるわけだ。

すなわち、ウテナもまた「望まれる役割への固執」という形で、周囲から何を言われようとも頑なに王子様たらんとする。それゆえにアンシーを見過ごすことができず、決闘に巻き込まれ、結局は暁生の手の上でいいように転がされていることに気付かない。このウテナの姿には「キャリアウーマン幻想」に近いものを感じ取ることができる。

 

とか何とか言っているけれども、私は決してこの作品(アニメも含む)は「女」=フェミニズムについてだけ語っているのではないと思うよ。そもそもユニット名が「ビーパパス」=父親になろう、だもの。その後の幾原作品においても、抑圧されているのは少女だけではなく少年もまた。『ノケモノと花嫁』なんて分かりやすいよね。幾原監督作品の底を流れるテーマは「傷ついた子供たちを閉じ込める閉鎖空間と、その破壊」であるように思う。

 

さて、この漫画(アニメもだけれども)において、ウテナは結局、その呪いに殉じて消滅する運命を辿る。暁生を取り込み、ともに自滅することで、世界をリセットするのである。そのために世界からウテナという少女の存在、記憶が消える。記憶が消えずに残ったのは冬芽とアンシー、そしてチュチュのみ。

そして、ここに至ってようやく「少女革命」というタイトルが意味を持つ。

そう、ウテナが呪いに殉じて暁生と共に消滅(アニメ版では暁生は生存)したことで、アンシーの呪いが消滅するのである。アンシーはお姫様から解放され、自分の意志で行動することができるようになる。そしてアンシーが自分の意志で選んだ道は、ウテナを探すこと――。

漫画版では、明るい日差しの中、アンシーは旅立つ。アニメ版では雪の降りしきる中、鳳学園の門を出ていく。劇場版ではウテナと共に荒れ果てた荒野へと旅立つ。その先にあるものが明るい未来か挫折の日々かは、それは分からない。

ただ、自我を得たアンシーの目は明るい。アンシーは「ウテナを探す」という新たな宿命に囚われているわけではない。会いたい、その思いがアンシーを動かす。それはきっと友情という言葉で置き換えられるのではないかと思う。

 

それはさておき、なんでこの漫画は『少女コミック』じゃなくて『ちゃお』に掲載されていたのかなぁ。性的隠喩がかなり含まれている作品なのだけれども。

そもそも「ディオスの剣」自体が「花嫁を鞘とする王子の剣」だもの、ねぇ。冬芽戦では、一度アンシーの胸から取り出された剣が、冬芽の命令により再度アンシーの体に取り込まれ、再び出現したその剣はディオスと花嫁の力を得て炎のように熱くなるのである。これがアニメ版だとさらに露骨で、冬芽の命令によりアンシーはその剣の先に口づけをする。すると剣は赤く熱く燃え滾るのである(アンシーが剣に口づける瞬間、ウテナは見てはいけないもののように思わず目をそらす)。これが性的隠喩でなくて何だと言うのだろう。

アニメ版では衝撃のトラウマ回(33話)において、ウテナの処女喪失があからさまに描かれるが、『ちゃお』の掲載漫画ではさすがにそれは無理よね。その代わりに、暁生に命じられるままに、ウテナとアンシーは「契りの儀式」を交わすことになる。城の下でアンシーの体からディオスの剣を引き抜いたウテナは、アンシーに口づけされた瞬間に意識を失う。そして意識のないウテナの体に向かい、暁生が剣を突き立てるような仕草をする。意識をほとんど失ったウテナは、バラの香りと、アンシーの声をかすかに感じながら、何かの感覚を覚える。

なんなんだ? この……

熱いような  痛いような 突き刺されるような感覚……

いったい何が… 起こっているんだ?

ああっ……!!

(4巻 ウテナのモノローグ)

やーらしいねーーーー( *´艸`)

ホント、どうして『ちゃお』だったんだろう。未だに謎だわ。