つれづれぶらぶら

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『エンドロールのつづき』

そういえば、いつの間にか、スクリーンの右上に「丸いパンチマーク」が出ないことを不思議に思わなくなってしまっていたな――。

 

今週はかなりハードなお仕事をこなしていたせいで、木曜日の朝の通勤電車の中で「あ、これもう金曜分の気力の残量ねぇわ」と気づいてしまったので、昨日の金曜日は有給休暇を貰って、いつものように映画を観に行ったのだった。ストレス発散には映画鑑賞がいっちばん!

というわけで、新宿ピカデリーまで『エンドロールのつづき』を観に行った。ぬまがさワタリさんのブログで知って、すごく興味を惹かれたんだけど、毎度のことながら長野県内でやってない。ちっ。

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さて、その『エンドロールのつづき』はインド映画なのだ。

って言うと、またバーフバリやRRRみたいな、血沸き肉躍る超絶スペクタクル痛快アクションもの?インド映画って、なんかやたらと歌ったり踊ったりするやつでしょう?と思われるかもしれないが、これはそういうのとは全然違うタイプのインド映画。

どんな感じの映画かを知ってもらうには、やっぱりトレイラーを観ていただくのが手っ取り早いかな。


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物語の舞台となるのは、インド北西部にあるグジャラート州。インド全体の人口が約12億1千万人、そのうちグジャラート州全体の人口は約6千万人。そのグジャラート州の南部にあるのが主人公の少年・サマイの住むチャララ。人口はほんの1万6千人ほどで、ライオンなどの野生動物がだだっ広い草原の中を悠然と歩き回っている。

サマイが毎日列車と自転車で1時間かけて通っているのが、学校や映画館のあるアムレーリーという都市だが、それでも人口は11万8千人ほどで、のどかな片田舎といった風情がただよう。

 

時代は2010年。9歳の少年・サマイは、厳格な父と料理上手な母、可愛らしい妹と暮らしている。父は自分たちがバラモン(インドのカーストの最高階級)であることに誇りを持ち、映画を低俗なものだと見下している。しかし、財産の牛500頭を兄弟に騙し取られたために没落し、現在はチャララ駅のホームでチャイを売って日銭を稼ぐ惨めなありさまだ。

そんな父が珍しくアムレーリーにあるギャラクシー座という映画館に家族を連れていくという。父は映画を軽蔑しているが、上映内容がカーリー神を称える内容だから今回ばかりは特別だ、今後はないぞと言う。そうしてサマイは映画を観る――映画館の後方から放たれた色とりどりの美しい光の筋――それに心を奪われてしまう。

その日から、サマイは学校を抜け出して映画館に通う。しかしお金はなく、客席に忍び込んだことがバレると叩き出されてしまう。そんなサマイに助けの手を差し伸べたのが映写技師のファザル。母が毎日サマイに持たせてくれる美味しいお弁当と引き換えに、映写室の小窓から映画を観ていいぞと言うのだ。

こうしてサマイはタダで映画を観るようになり、ますますその魅力に取りつかれていく。やがて映写技師の仕事を手伝うようになり、ファザルから映画はどのように作られているのかを学ぶ。そうなると、今度は自分自身でも映画を上映してみたいと思うサマイ。チャララの少年たちを集め、手作りの映写装置を作ろうと、トライ&エラーを繰り返す。

そんなある日、サマイはファザルからの電話を受ける。悲しみに暮れるファザルがサマイに伝えたのは「映画文化におけるひとつの時代の終焉」だった――。

 

先に総評を言うと、めちゃくちゃ良かった。ものすっごく良かった。これはもう、インド映画だとかそういう先入観を全部なくして、とにかく観てほしい。ああ、今日、有給休暇を取って新宿に来た甲斐があった……!って、エンドロールを見ながら痺れてたもん。

 

何が良いって、主役のサマイ君を演じたバヴィン・ラバリ君が最高に良い。表情がとても豊かで、序盤の無邪気なあどけなさから、中盤の不敵な生意気さ、終盤のおとなびた決意の表情まで、一瞬ごとに色を変えるモザイク・ガラスのように揺れ動く少年期の心が、その大きな黒い目から痛いほどに伝わってきた。

さぞや名のあるインド演劇界の名子役であろうと思ってパンフレットを開いたら、なんと本当にグジャラート州に住む9歳の素人の少年で、しかも本作の撮影前まで実際に映画館で映画を観たことがなかったという。ええっ?とても演技未経験とは思えなかったぞ?!さらに、サマイの友人たちも全員グジャラート州のワークショップで見出された子どもたちなのだそう。

 

この作品の前半において、キーとなるシーンがある。父に映画作りを反対されたサマイが学校の先生に悩みを打ち明けるシーンで、うちはバラモン階級だから映画なんて低劣なものはダメだって言うんだ、と言うサマイに、先生はこう答える。

「この国に階級は2つしかない。英語ができる人と、英語ができない人だ」

この先生の言葉が、終盤において大きな意味を持ってくる。英語ができる人は、貧しい田舎を出て、高度な教育を受け、最新の職業に就くことができる。しかし、英語ができなければ、どこへも行けず、時代の変革に取り残されてしまう。この作品は、その厳しい現実を少年に突き付けてくるのだ。

 

この映画を観ながら、私はかつて観たある映画を思い出していた。1988年に公開された、チリのドキュメンタリー映画『100人の子供たちが列車を待っている』だ。

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ピノチェト独裁政権下で、日々の生活に困窮する人々。満足な教育を受けられない子どもたちのために、ある女性教師が子供たちに「映画」を教える教室を開設する。紙の表裏に異なる絵を描いてくるくる素早く回すと2つの絵が合体したように見える「ソーマトロープ」や、円の内側に連続する絵を描いて並べ、外側からスリットごしに覗くアニメーションの基礎を学ぶ「ゾートロープ」などの技法に、貧しい子どもたちは目をキラキラさせて見入る。未知の物事を学ぶことの面白さ。教育の本質とは、子どもたちに学ぶ喜び、そして自由への翼を与えることだと実感させてくれる、たいへん優れた映画だった。

この作品タイトルで、100人の子供たちが待っている「列車」とは、すなわち「映画」のことだ。それは、フランスの映画発明家であるリュミエール兄弟が1895年に製作した白黒フィルム『ラ・シオタ駅への列車の到着』を意味している。


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『ラ・シオタ駅への列車の到着』をオマージュしたシーンが、『エンドロールのつづき』の中にもある。サマイの家族が映画を観た後、列車でチャララに帰るシーンだ。そのほかにも、この映画の中には過去の名画をオマージュしたシーンが随所にあり、パン・ナリン監督の映画愛を感じ取ることができる。

 

この作品は、パン・ナリン監督の自伝的作品なのだという。監督自身、グジャラート州の田舎で貧しいチャイ売りの家に生まれ、8歳になるまで映画館に行く機会に恵まれなかった。そして初めて映画を観たその日に、世界が一気に広がったのだと、パンフレットの中で監督は語っている。

また、「インド映画」とひとくくりにしてしまいがちだが、ヒンディー語映画の「ボリウッド」(『きっと、うまくいく』など)、テルグ語映画の「トリウッド」(『RRR』など)、タミル語映画の「コリウッド」(『ムトゥ 踊るマハラジャ』など)などがインド映画の大きな勢力となっている現状において、グジャラート語の映画産業はほとんど発達していないのだそうだ。インド映画としてイメージされる「歌」や「踊り」などの要素を排し、一般の人々をキャストに起用したこの実験的な映画は、ベルギーとフランスの映画会社をスポンサーにつけたことでようやく成立したのである。

ちなみに、歌や踊りのシーンは全くないのかと言うと、ほんのちょっぴりだけある。それがとっても可愛らしい、微笑ましいシーンなので、観に行く方は楽しみにしておいてほしい。

 

ところで、この映画の『エンドロールのつづき』という邦題は、ちょっと意図が伝わりにくく、テーマをぼやけさせている。作中のファザルの台詞から取った、英題の『Last Film Show』のほうがより鮮明に内容を表していると思う。

 

何はともあれ、本当に素晴らしい映画だった。最後の列車のシーンでは、母親に感情移入してしまって、ちょっと涙が滲んでしまった。これは絶対に映画館で観てほしい――っていうか、映画館で観なくてどこで観るつもりなんだ、と言いたいぐらいの作品なので、ぜひ映画館に足を運んでみてほしい。本年度アカデミー賞・国際長編映画賞のインド代表で、現在、国際的な映画祭で数々の賞を受賞している大注目作。今観ておいて絶対に損はない映画であることは間違いない。

長野県下でも2月下旬から松本シネマライツと長野相生座ロキシーでやるみたいなので、長野県民の皆さんも是非ぜひ!私ももう1回観に行きたいなー。息子にも見せたいんだけどついてくるかなー。観てほしいなー。